前回は「東京の成り立ちを知ろう 1〜昔の江戸〜」の話でした。

昔は地味な存在だった「江戸」。
太田道灌の築城により、日本の歴史の表舞台に出てきます。

「湿地帯の平地」だった江戸のある武蔵国は、農業が盛んで生産力が非常に高い地域でした。
米などの農作物が、たくさん取れたのです。
戦国期には、農業の生産力を「石高」で表しました。
「加賀百万石」などで有名な「生産量・軍事力」を示す数字です。
国の広さにもよりますが、この「石高」で武蔵は65万石程度と、77万石ほどの近江に次ぐ「全国2位」の生産量でした。
「生産力が高い国」は価値が高く、大名に狙われます。
「穀倉地帯」とも言える武蔵国は、諸大名が「ぜひ欲しい」土地でしたが、江戸は目立たない存在でした。
戦国期に入り、北条早雲(伊勢新九郎)が伊豆に乱入し「北条家」が始まります。

今川家と縁があったため、伊豆から関東へ侵攻していった北条家。
急速に勢力を伸ばして、関東随一の大名となります。
そして、二代目・氏綱の時、拠点を置いたのは、相模・小田原でした。
これは、かつて鎌倉幕府もあった鎌倉に近く、「由緒正しい」土地だったのでしょう。

これによって、戦国期の関東の都は、小田原になります。
関東へ勢力を伸ばす北条家は、江戸を支配しますが、この時は江戸付近に別の拠点がありました。
江戸は、まだ「さほど注目されていない街」だったのです。

戦国末期、織田信長の跡を継いだ形で勢力を伸ばした豊臣秀吉。
中央で覇権を握った秀吉は、九州の島津氏を下します。
「天下統一の総決算」の相手は、関東の北条氏でした。

天下統一だ!
この時、北条氏と姻戚関係にあった徳川家康。


徳川殿は、北条と親戚だ。
秀吉に臣従したが、
北条と手を組むのでは?
奥羽の伊達政宗もいるしな。


ちょうど、秀吉が北条氏を攻めようとする頃に、急速に勢力拡張した伊達家。
伊達政宗の動きに注目が集まります。