関東の大大名・北条家の名前の由来〜「伊勢」から「北条」へ名前を変えた理由・鎌倉幕府執権「北条家」のブランド力〜|歴史の痕跡2・中学受験・歴史

前回は「紀尾井町の名前の由来〜徳川御三家・紀伊と尾張と水戸・少し格下の御三家水戸藩・別格の存在だった井伊家〜」でした。

目次

関東の大大名・北条家の名前の由来

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左上から時計回りに戦国大名・天下人 織田信長、豊臣秀吉、北条氏政、徳川家康(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

開成中の社会の選択問題で、豊臣秀吉の天下統一に最後に抵抗した大名(後)北条氏が出ました。

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選択問題とはいえ「小田原の北条氏」は細かい知識です。

戦国時代において、「北条家は欠かせない大大名」ですが、小学生に問うには細かな知識です。

戦国時代に関東の大大名となった北条氏は、鎌倉時代の執権・北条氏と一緒です。

そのため、区別するために後北条氏と言われることもあります。

北条さんって、
すごい人が多い一族なのかな?

私の友達には「北条」という
名前の人はいないけど、多いのかな?

名前は「たまたま」一緒だったのでしょうか、それとも何か理由があるのでしょうか。

少し考えてみましょう。

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日の出:富士山(新教育紀行)

実は、執権だった北条を「意識して、勝手に」北条と名乗ったのです。

え、じゃあ、
元は違った名前だったの?

関東の大大名「北条」家の元の名前は、「北条」ではなく「伊勢」でした。

「伊勢」から「北条」へ名前を変えた理由

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戦国大名 北条早雲(伊勢宗瑞)(Wikipedia)

戦国期の北条氏は、北条早雲(伊勢宗瑞)から始まります。

北条早雲(伊勢宗瑞)は駿河今川氏と関わり、伊豆・相模へ進出して成立した「出来星大名」です。

一説には、伊勢宗瑞は「政所執事であった伊勢家の一族」という説もありますが、定かではありません。

そもそも「一族」というのは「どこまでの関係者を言うのか」が不明瞭です。

政所執事は幕府の高級官僚なので、「真っ当な一族」であれば、京周辺で一生を過ごしたと考えます。

「桶狭間の戦い」で後に織田信長に倒される、足利幕府・超名門の今川家で内紛が起きました。

「内紛」と言うのは、いわば「内輪揉め・ケンカ」です。

今川家の内紛を
調停したぞ!

伊勢殿には、
伊豆の興国寺城を差し上げます!

小さな城だが、
「一国一城の主」だ!

ガンガン領土を
広げてゆくぞ!

際立って高い軍事・政治能力を持っていた伊勢宗瑞は、伊豆から相模へと領土を広げます。

そのため、もともと守護であった武田家・島津家・大友家等とは異なります。

守護から大名になった「歴史ある大名」と異なり、伊勢宗瑞のような大名は「戦国大名」と呼びます。

「戦国時代だからこそ生まれた」大名という意味です。

守護大名と戦国大名

守護大名:もともと土地の守護・守護代が大名化・後に戦国大名化

戦国大名:戦国時代以降に生まれた出来星大名

じわじわ関東に領土を広げた初代・伊勢宗瑞を継いだ二代目・氏綱。

名門の伊勢家だが、
関東では馴染みがない・・・

なあ、最近勢力を
伸ばしている伊勢って誰?

「伊勢って誰?」では
困る・・・

いっそのこと、
名前を変えようか・・・

そもそも、当時「伊勢国(現在の三重県)」があったので、関東の武士からすると、

伊勢って、
上方(京周辺)の名前かな?

関東の武士達に馴染みがあって、
権威もある名前にしよう・・・

そして、鎌倉時代の執権北条氏にちなんで「北条」と「勝手に」名乗ったのです。

鎌倉時代の執権・北条と
同じ「北条」に名前を変えよう!

関東の武士たちは「あ、あの北条さん?」と
思ってくれるだろう。

関東武士に馴染み深い名前を名乗る方が、
関東を統治しやすい。

このように考えて、名前を「伊勢から北条に」勝手に変えたのでした。

鎌倉幕府執権「北条家」のブランド力

鎌倉幕府第八代執権 北条時宗(Wikipedia)

北条氏綱が「伊勢」から「北条」に改名したのは1523年頃と言われています。

そして、鎌倉幕府が滅亡したのが1333年です。

つまり、鎌倉幕府滅亡から200年近く経過したのちの時代でも、「北条家」のブランド・パワーがありました。

特に、鎌倉幕府の根拠地である鎌倉も勢力圏に収める・伊勢氏にとっては、

俺たちは、
北条家だぞ!

「北条」のブランドが欲しかったのです。

すると、効果が大きく、

おい、最近、小田原城で
勢力を張っている連中は「北条」らしいぞ!

あの「北条」の
末裔か?

だったら、
従ってもいいかもな・・・

かつての「著名な家」「大きな勢力を持った家柄」は、大きなブランドです。

そのブランドに乗っかるのは、明治維新初期にもありました。

こうして(後)北条家は、さらに勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一の最後の敵となりました。

秀吉は、元は農民で
ただの成り上がり者ではないか!

そんな奴に、名門・北条家が
従えるか!

そもそも、伊勢宗瑞が「政所執事の伊勢家一門」であれば「名門」ですが、確たる証拠はありません。

その中、「北条が名門」かどうかは考え方次第ですが、すでに四代目の氏政にとっては、

北条家は
関東の超名門だ!

だったのでした。

この「北条という名前の名門意識」は、鎌倉幕府の執権であっただけではなかったでしょう。

元軍を
なんとか防いだ・・・

当時、圧倒的な世界最強の国であった元から日本へ攻め込んできた「元寇」。

日本が征服されて、植民地となる可能性が高い状況でした。

ここで、元軍を防ぐ指揮をした鎌倉幕府第八代執権 北条時宗。

我が国を
守ったぞ!

「日本を守った北条氏」という意識が、当時は強かったのでしょう。

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