西郷隆盛 11〜社会を知る・年貢・戦国時代の島津家〜|薩摩藩

前回は「西郷隆盛 10〜挫折をバネに・右腕の大きな負傷・勉強家〜」の話でした。

西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

藩庁へ

右腕を大きく負傷し、武術を諦めた西郷少年。

一生懸命
学ぼう!

一生懸命勉強します。

そして、17歳で郡方書役(こおりがたかきやく)助として、薩摩藩庁に勤め始めます。

1844年のことでした。

お勤め開始!
社会に役立つごわす!

まだ大学はない当時、17〜18歳頃から皆勤め始めたのです。

日本で最初の大学:東京大学は、1877年設立です。

そして、東京大学の前身の一つであり、徳川幕府が「洋学研究・教育機関」として蕃書調所は1856年設立です。

現代と比較すると、基本的に短かった教育期間。

そして、西郷青年は一生懸命藩庁で勤めます。

重い年貢

郡方(こおりがた)とは、藩内の農村を巡回して、農業を調査し、年貢徴収を監督する役目でした。

現代社会での財務省と農林水産省を合わせたような役目です。

基本的には、「年貢の徴収」が最も大事な役目です。

ここで、西郷は「社会の現実を知る」貴重な経験をします。

農民の方々は
本当に大変だ・・・

藩によって税率は様々ですが、薩摩藩は「八公二民」の税率でした。

つまり、農民にとっては「生産した80%を年貢として徴収される」という過酷な状況でした。

八公二民・・・

これでは、
農民が疲弊するのは当然だ・・・

薩摩藩の特殊性

この「八公二民」という異常に高い税率。

これは、薩摩藩が「暴利を貪っていた」のではなかったのです。

「数多くの武士を養う」ために、必要な財源だったのでした。

戦国末期、島津家は急速に膨張します。

1586年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

1540年頃、薩摩藩と同じ薩摩・大隅を領有する程度の、中規模大名だった島津家。

武田家と並び「鎌倉以来の名門」の島津家でしたが、家中の反乱もあり、所領は大きくはありませんでした。

戦国大名 島津義弘(Wikipedia)

1570年頃から急速に成長し、なんと1586年ごろには「ほぼ九州全土を制圧」する勢いになりました。

我が島津家が
九州を制圧するのだ!

そこに出てきたのが、豊臣秀吉です。

豊臣 秀吉(Wikipedia)

これからは、
私の時代。

島津家は、他の家に領土を返して、
少し引っ込みなさい。

なんだ!
突然出てきて!

反発した島津家は、豊臣家と戦います。

我が島津軍は、
鉄砲も大量にあり、最強なのだ!

精強な島津軍は、一度は豊臣軍を蹴散らし、打撃を与えます。

だが、なんといっても軍事力・経済力に大きな差があったため、豊臣家に屈服します。

やむを得ない・・・

その結果、「薩摩・大隅77万石」となり、関ヶ原の戦いを経て、領土を保って幕末に至ります。

一度急成長したため、武士が非常に多くなった島津家。

領土が減っても、「武道第一主義」の薩摩藩は「武士の数を保持」します。

そのため、薩摩藩は「他藩よりも5倍程度、武士が多い」異様な藩となりました。

「異常に多い武士」を維持するために、「八公二民」だったのです。

武士が多いのは、
我が薩摩が強力である源泉・・・

だが、もっと農民を
大事にせねば!

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