前回は「西郷隆盛 10〜挫折をバネに〜」の話でした。

藩庁へ
武術を諦めた西郷少年。
一生懸命勉強します。
そして、17歳で郡方書役(こおりがたかきやく)助として、薩摩藩庁に勤め始めます。
1844年のことでした。

お勤め開始!
まだ大学はない当時、17〜18歳頃から皆勤め始めたのです。
日本で最初の大学:東京大学は、1877年設立です。
そして、東京大学の前身の一つであり、徳川幕府が「洋学研究・教育機関」として蕃書調所は1856年設立です。
現代と比較すると、基本的に短かった教育期間。
そして、西郷青年は一生懸命藩庁で勤めます。
重い年貢
郡方(こおりがた)とは、藩内の農村を巡回して、農業を調査し、年貢徴収を監督する役目でした。
現代社会での財務省と農林水産省を合わせたような役目です。
基本的には、「年貢の徴収」が最も大事な役目です。
ここで、西郷は「社会の現実を知る」貴重な経験をします。



農民の方々は大変だ・・・
藩によって税率は様々ですが、薩摩藩は「八公二民」の税率でした。
つまり、農民にとっては「生産した80%を年貢として徴収される」という過酷な状況でした。



八公二民・・・



これでは、
農民が疲弊するのは当然だ・・・
薩摩藩の特殊性
この「八公二民」という異常に高い税率。
これは、薩摩藩が「暴利を貪っていた」のではなかったのです。
「数多くの武士を養う」ために、必要な財源だったのでした。
戦国末期、島津家は急速に膨張します。


1540年頃、薩摩藩と同じ薩摩・大隅を領有する程度の、中規模大名だった島津家。
1570年頃から急速に成長し、なんと1586年ごろには「ほぼ九州全土を制圧」する勢いになりました。
そこに出てきたのが、豊臣秀吉です。





これからは、私の時代。



島津家は、他の家に領土を返して、
少し引っ込みなさい。
反発した島津家は、豊臣家と戦います。
精強な島津軍は、一度は豊臣軍を蹴散らすも、軍事力・経済力に大きな差があったため、豊臣家に屈服します。
その結果、「薩摩・大隅77万石」となり、関ヶ原の戦いを経て、領土を保って幕末に至ります。
一度急成長したため、武士が非常に多くなった島津家。
領土が減っても、「武道第一主義」の薩摩藩は「武士の数を保持」します。
そのため、薩摩藩は「他藩よりも5〜10倍程度、武士が多い」異様な藩となりました。
「異常に多い武士」を維持するために、「八公二民」だったのです。



農民を大事にせねば!