山川捨松 7~会津が中心へ〜|戊辰戦争

前回は「山川捨松 6~重荷を背負う会津藩〜」の話でした。

山川(大山)捨松(Wikipedia)
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首都を守る会津

江戸時代までの日本の首都は、京都でした。

徳川将軍のいる江戸は政治の中心であるものの、天皇のいる京都が中心だったのです。

首都・京都は、徳川幕府にとっても別格に大事な都市です。

そして、特別に「京都所司代」という、京都を治める長官を設置してきました。

しかし、幕末の尊王攘夷派によって、あまりに治安が悪くなった京都。

将軍後見職 徳川 慶喜(Wikipedia)

もはや、警察では手に負えん。

軍隊を置くしかない。

この京都を治める、新設の「京都府軍事長官」として、松平容保は京都守護職に就任します。

会津藩主 松平 容保(Wikipedia)

新撰組

山川捨松が2歳の1862年に、松平容保は藩兵1,000を率いて上洛します。

犯罪が多すぎて・・・

1,000名では足りない・・・

正規兵1,000名は、かなりの軍事力ですが、広い京都を守るには戦力不足です。

そこで、幕府は奇策に出ます。

なんと、出自によらず「強いものなら、幕臣に取り立てる」という策です。

ここで、誕生したのが新撰組です。

新撰組局長 近藤 勇(Wikipedia)

剣術の達人であった、近藤勇は農民の出でした。

徳川幕府が自ら設置していた「士農工商」という身分制度を、自ら破壊することになります。

俺は、強いぞ!

現代の感覚からすると、身分制度の破壊は当然のことです。

しかし、当時は「幕府の政策を、幕府自らが否定する」ことになりました。

藩士よりも幕臣は格が上で、幕臣になることは非常に難しいことでした。

それだけ、幕府は弱体化していたのです。

荒くれ者が大勢集まる新撰組では、何度も内輪揉めをします。

最終的に、会津藩の配下として幕末を戦うことになります。

容保、軍事総裁職へ

新撰組を加えた会津藩が、京都に睨みをきかせるも、治安は不安定なままです。

殺人事件が続発するという事態は、容易に収まりません。

この中、慶喜は

会津を中心にして、
徳川を立て直そう!

と考え、松平容保を陸軍総裁職・軍事総裁職に任命します。

「京都軍事長官」から「徳川幕府軍事長官」へ格上げになった容保。

孝明天皇(Wikipedia)

松平容保よ。
京を任せたぞ。

誠実な人柄により、時の孝明天皇からも大いに信頼されます。

ははっ!

孝明天皇から全幅の信頼を受けた容保。

なんとしてでも、
京都の治安を守る!

自らの使命に燃えます。

山川捨松4歳でした。

世の中が、
大丈夫かしら・・・

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