前回は「日本の旧国名を楽しく覚えよう!4〜京・山城の強い影響〜」の話でした。
かつての日本が「京=山城中心」であり、日本の中心と重心が京都にあった話でした。
徳川幕府は、明治維新まで「天皇は京都、将軍は江戸」と二つの都市の役割を分けました。
この体制で、250年以上運営して来ました。
政治の実権は全て徳川幕府にあるものの、形式上「征夷大将軍は天皇・朝廷から任命される」のでした。
日本の政治は、二頭政治とも言える曖昧な体制だったのです。

徳川幕府にとっては「近すぎず」また「遠すぎず」の「江戸と京都の距離感」がちょうど良かったのでした。
上の図からも、京都がそれまでの日本の中心であることが合理的ですが、中心が江戸=東京に移動するとどうなるか、考えてみましょう。

江戸期は北海道は松前藩が管理しており、アイヌと共存していました。
「徳川幕府=当時の日本」は大体、現在の札幌の手前くらいまでで、境界は曖昧でした。
明治維新後「北海道を開拓しよう」という動きもあり、北からロシアが進出して来ました。
北海道の確保・防衛は、日本政府にとって非常に重要です。

日本全体をすっぽりと覆う江戸=東京を中心とする円が考えられます。
この円(日本領)はその後範囲を広げてゆきますが、イメージとして「明治新政府が始まって間もない頃」です。
東京が首都であり(明文化はされていませんが)、天皇陛下にも京都から東京へ動座頂いたこと。
このことが「新しい日本国家の骨格」として、最も合理的であったのです。