後藤新平の医師としての矜持〜東大との対決・ただ一つの帝国大学・東京大学医学部と北里柴三郎・脚気論争と大秀才森林太郎・「別の顔」を持っていた森〜|後藤新平20・相馬事件

前回は「逮捕されつ牢獄へ向かった後藤新平〜相馬事件・大日本帝国憲法発布前夜の大混乱・法廷闘争へ・陸奥宗光の政治判断・「ザ・弁護士」星亨登場〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

東大との対決:後藤新平の医師としての矜持

片山国嘉 帝大(東大)医学部教授(Wikipedia)

医師として、自らの能力に自信がある後藤。

鑑定がおかしいのでは
ないか?

相馬誠胤の検死結果に疑問を呈します。

相馬誠胤の遺体の検死結果は、警視庁と帝国大学(東大)に保管されていましたが、双方で状況が異なっていました。

帝大(東大)の保管の仕方が
おかしいのではないか?

この後藤の反論に激怒したのが、当時、帝大(東大)医学部教授だった片山国嘉。

私が間違っていると
言うのか!

法医学の権威であると自認していた片山教授。

おいっ!
何言ってるんだ!

私が間違った判断を
するわけがないだろう!

後藤も、ドイツに留学した
医師でして・・・

片山もドイツに留学し、後藤と一緒です。

ほう。私と同じように、
ドイツに留学したのか・・・

で、後藤は、
どこを卒業しているのだ?

後藤は、
福島医学校卒です・・・

ふざけるな!
俺は帝大(東大)卒だぞ!

当時、東京大学は、現代よりはるかに権威のある存在でした。

ただ一つの帝国大学:東京大学医学部と北里柴三郎

新教育紀行
東京大学(Wikipedia)

東京医学校(大学東校)や工部大学校を発祥とする東京大学。

明治維新までは、各藩の藩校や寺子屋で教育が行われていた日本。

図解幕末史(インフォレスト)

明治維新を期に、1877年に設置された東京大学。

開成学校・東京医学校・工部大学校など既存の学校を統合して設立されました。

この年は、西郷隆盛率いる旧薩摩藩士が西南戦争を起こしています。

陸軍大将 西郷隆盛(国立国会図書館)

多数の戦死者が出た大規模な内戦の中、「大学どころではない」はずですが、

内務卿 大久保利通(国立国会図書館)

新たな世を作るには、
大学をつくることが最重要だ!

事実上の総理大臣だった内務卿 大久保利通は、強力に大学設置を推進しました。

その後、1886年の帝国大学令によって「帝国大学」へ改称されます。

現代、東大・京大など七大学をまとめて「旧帝大」と呼ぶ慣習があります。

実は、相馬事件の裁判当時の1894年、帝大は一つしかありませんでした。

つまり、「帝大=東大」だったのです。

設置年大学名
1877年東京帝国大学
1897年京都帝国大学
1907年東北帝国大学
1911年九州帝国大学
1918年北海道帝国大学
1924年京城帝国大学(韓国、のちに廃止)
1928年台北帝国大学(台湾、のちに廃止)
1931年大阪帝国大学
1939年名古屋帝国大学
帝国大学設置年(Wikipediaより)

特徴的なのは、一時期に日本領だった京城(ソウル)と台北(タイペイ)にも帝国大学を設置していたことです。

この二校は、1945年の日本敗戦後、韓国・台湾が日本領ではなくなり、廃止となりました。

1897年に京都帝国大学が設置されるまでは、「帝大と言えば、東大」だったのです。

当時、日本で唯一つの「ザ・大学」だった東大(帝大)。

相馬事件の裁判が行われていた1894年当時、東大の影響力は極めて強かったのでした。

東大の権威・影響力の強さは、現代の1000倍以上だったでしょう。

帝大(東大)に物申すとは、
良い度胸だ!

プライドを傷つけられた片山教授は、猛烈な勢いで、後藤の反論に再反論します。

後藤こそ
間違っている!

後藤が間違っている、
のだ!

医師 北里柴三郎(Wikipedia)

後藤の盟友であり続けた北里柴三郎もまた、東大医学部出身です。

当時は、脚気が非常に大きな問題で、多数の死者を出していました。

医師 緒方正規(Wikipedia)

北里がドイツ留学中に、北里の上司であり東大教授であった緒方正規。

北里、
頑張ってこいよ!

北里柴三郎のドイツ留学にも尽力します。

緒方は脚気の由来に関して、

脚気は
病原菌による。

と考え、「脚気病原菌説」を提唱します。

これに対して、様々な実験の結果、

どうも、脚気の原因は
細菌ではないと思うけど・・・

だが、東大医学部の上層部は
皆「脚気細菌説」だ・・・

研究結果から、脚気は細菌が原因では
なさそうだが・・・

そんなことを発表しようものなら、
東大から猛烈な反撃を受けそうだ・・・

困った・・・
どうしようか・・・

と考えた北里は、ドイツ人上司に相談します。

なるほど、君の研究結果から、
「脚気の原因を論理的に推測」したんだな。

脚気の原因が細菌ではない、
という研究結果か・・・

はい・・・
私はそう強く考えます・・・

君がそう考えるならば、
そう発表したまえ・・・

しかし、私の上司たちが、
細菌説を主張しておりまして・・・

「君の元上司と考えが違う」
など、どうでも良いことだ・・・

自分が正しいと考えることを、
しっかりと論文にして主張すること!

それこそが、サイエンティスト・科学者の
本来の姿だ!

そうだろう!
それこそがサイエンティストの使命だ!

確かにそうだ!
「意見の違い」こそ、発展の元だ!

はっ!
分かりました!

当時は、コッホ率いるドイツが医学で世界をリードしていました。

医師・細菌学者 Robert Koch(Wikipedia)

この頃、アインシュタイン少年が、ドイツからイタリアに向かいました。

日本より遥かに進んでいた「サイエンスの本場」のドイツ。

そのドイツで激励された北里。

もともと、緒方さんと私は
熊本医学校で同期だった・・・

3年先に緒方さんが
東京医学校に入ったから、上司になっただけ・・・

反論しても、緒方さんは
そんなに怒らないだろう・・・

あくまで、学問上の
見解の違いだから・・・

実は、北里と緒方は元々は比較的仲が良かったのです。

別に緒方さんを
攻撃するわけではないし・・・

緒方さんも「私の研究上の主張」は
理解してくれるはず・・・

そして、元の上司の緒方正規に反論します。

脚気の原因は
細菌ではないと考えます!

この「研究上の反論」は、欧州的な発想では「当然のこと」でありました。

そして、医学や科学などを「欧州から丸ごと輸入していた」日本は、「欧州的発想」であるべきでした。

ところが、この北里の行動に対し、意外な事が起こりました。

なんだと!
俺に
反論だと!

なんと、北里の考えとは相違して、緒方教授は激怒したのです。

ちょっと待て!
お前は俺の部下だろうが!

この
恩知らずめが!

北里は
何考えてるんだ!

おのれ・・・
絶対に許せん!

かつての上司や帝大(東大)の顔に
泥を塗るとは!

「科学的根拠がどうか」以前に、「メンツを潰された」という発想に突き進んだ緒方。

北里は
破門だ!

この結果、北里柴三郎は東大卒にも関わらず、東大閥から生涯敵視されることになります。

そんなに
怒らなくても・・・

これはマズかったか・・・
まさか、こんなことになろうとは・・・・

脚気論争と大秀才・森林太郎:「別の顔」を持っていた森

軍医 森林太郎(国立国会図書館)

脚気問題は、非常に大きな問題でした。

そして、他にも様々な人物を巻き込みました。

帝大(東大)医学部に史上最年少で合格し、非常に頭脳明晰で優れた軍医だった森林太郎。

いわば、現代で言えば「大秀才」であり、試験ではトップ層を走り続けたであろう森。

現代なら、森は「中学受験から大学受験までずっとトップ層」をひたむきに突き進んだでしょう。

大秀才・森林太郎もまた、この論争に加わりました。

私は
超優秀なのだ!

当時、脚気によって亡くなる将兵が多く、軍医である森林太郎も頭を悩ましていました。

なんとか
しなければ・・・

現代、「脚気の原因はタンパク質不足」と知られ、食事療法で治りますが、

脚気が
食事で治るだと?

はっはっは!
馬鹿な!

脚気は細菌が
原因に決まってるだろう!

非常に頭脳明晰だった森でしたが、「食事療法」を唱える医師に対して、

この
馬鹿者!

まったく取り付く島もありません。

それほど、自らの能力に自信があった森。

私が間違えるはずが
ないだろう!

それほど自らの頭脳に自信があった森でしたが、結果的に間違っていました。

この論争の間も、脚気によって亡くなる方が大勢いました。

・・・・・

自らの能力を過信するあまり、「奢っていた」であろう森。

森には「奢る平家も久しからず」という言葉を伝えたい。

そんな言葉くらい、
知ってるわ!

森はこの言葉を当然「知っていた」でしょう。

私は
大秀才なのだ!

その上、常人では困難な「平家物語を原書で読破」していたでしょう。

そして、森自身の森だけの「オリジナル見解」を持っていたでしょう。

その理由は、「森が非常に優秀だったから」だけではありません。

非常に優れた軍医であった森林太郎は、普通の人では持てない「別の顔」を持っていました。

文豪 森鴎外(林太郎)(Wikipedia)

その名は森鴎外。

新教育紀行

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