前回は「後藤新平 9〜官軍との戦い〜」の話でした。

猛将・谷干城
後の参議・板垣退助率いる迅衝隊。
この強力な舞台が、「新政府軍の増援部隊」として、まだ10歳だった後藤のいる仙台藩にやってきます。
後に「自由民権運動」を掲げた「民衆の代表」のような存在の板垣退助。
若い頃は、むしろ怖すぎて、普通の人からすると「近寄りたくない」存在だったのでした。
もう一人、重要な人物が迅衝隊にはいました。

後に西南戦争などで活躍する、谷干城も迅衝隊のメンバーでした。
この写真を見ると、谷干城も、ちょっと危ない感じで強そうです。

若き日の拳銃を持った谷 干城は、実に迫力があります。
谷干城たちを率いる上司・隊長として、最前線で戦闘指揮をしたのが、若き板垣(乾)だったのでした。
谷干城も、ちょっと怖くて、
強そうだわ。
こういう人たちが、倒幕軍にいたんだね。
谷 干城と西南戦争
このバリバリ武闘派だった谷 干城。
いわゆる「征韓論争」(明治六年の政変)で、西郷隆盛たちが一斉に下野した頃、薩摩反乱を危惧した大久保利通。


西郷どんが、旧薩摩藩士を率いて
反乱を起こすかもしれぬ・・・



旧薩摩藩士の強さ・強靭さは
私が一番知っている・・・



反乱の際、まずは熊本城を攻撃するはず。



熊本鎮台には、屈強の司令官を置かねば・・・



しかし、薩摩藩士に対抗できる屈強の人物など、
今の政府内にはいない・・・





いた!!!



谷だ!



谷ならば、薩摩軍と
互角に戦えるだろう。



谷しかいない!



谷よ。
熊本鎮台司令官を任せたい。



お任せを。



熊本鎮台は、誰にも
抜かせませぬ。
「目には目を」ということで、「屈強の指揮官・軍隊」には、まずは「屈強の指揮官を」です。
そして、谷が熊本鎮台司令官に就任します。


谷干城少将が司令官、若き児玉源太郎少佐が補佐役となり、薩摩出身の樺山資紀中佐も入ります。
そして、「対薩摩」の熊本鎮台の屈強メンバーが、誕生したのでした。
名家意識の挫折
善戦するも、官軍に敗れた仙台藩。



我が仙台藩にとどめを刺したのは、
板垣退助だと・・・



板垣・・・
覚えておこう。
なんと、領地を没収されてしまい、62万石から28万石へ、半分以下にされてしまいます。
あまりの減封に、家臣の中には、当時開拓中だった北海道へ向かった者もいます。



我が仙台藩が、朝敵・反乱軍と
なってしまった・・・



名家・名藩だったのだが・・・
明治維新が成立した1868年に、11歳だった後藤少年。
今の小学校5年生くらいです。



ならば・・・



俺が、仙台を立て直してみせる!
政治家を志します。