御三家の歴史 2〜名門校の風格・御三家の変遷・戦前から戦後・御三家新入り・開成・麻布・武蔵・進学実績・御三家の行方〜|中学受験

前回は「御三家の歴史 1〜戦前から戦後へ・徳川御三家・戦前の「御三家」・一高(東大)合格者数・偏差値・大学進学実績・紡がれた歴史〜」の話でした。

目次

男子御三家の歴史:開成・麻布・武蔵へ

御三家:徳川葵紋(Wikipedia)

この「誰が・どこの機関が決定したか不明」ながら、浸透している「御三家」という名称。

戦前と戦後で変わりました。

戦前は、学校制度の違いもあり、開成・麻布・芝が「私立男子中御三家」でした。

戦前の「男子御三家」

私立御三家:開成・麻布・芝

そして、戦後高度成長期の1960年代後半〜70年代に、一校だけ入れ替わりました。

戦後の「男子御三家」

私立御三家:開成・麻布・武蔵

芝から武蔵に入れ替わり、開成・麻布は「変わらず」となりました。

戦前は「一高(東大教養学部)合格者数」で、戦後は「東大合格者数」で決定したようです。

一部、国立医学部の合格者数も加味されていると考えます。

御三家の変遷:戦前から戦後

武蔵中学・高校のかつての校舎(新教育紀行)

いずれにしても「御三家新入り」となった武蔵。

戦前・戦後では、日本国内の状況は全く異なり、「別の国」と言うほど違います。

特に第二次世界大戦中は、徹底した軍国主義であったため、教育思想は全く異なるでしょう。

日本が強い軍国主義に走ったのは、日露戦争頃からと考えられます。

薩摩藩出身の幕末〜明治の威人(偉人)たち: 左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎(Wikipedia)

1900年頃〜1945年の間は、徹底した軍国主義で、その理念のもと各学校で教育が行われていました。

特に私立中では、「一部自由な裁量」があったかも知れません。

一方で、満州事変(1931年)頃から陸軍中心に「軍部の体制」が強化されました。

憲兵隊・特高(特別高等警察)がウロウロして、言論統制する中、

おい!
なんだ、これは!

ちょっと
来てもらおうか!

とても「自由な雰囲気」は、なかったでしょう。

特に第二次世界大戦・太平洋戦争中の言論統制は、凄まじい状況でした。

ダグラス・マッカーサー GHQ最高司令官(Wikipedia)

連合国(主に米国)に敗戦した日本は、1952年まで米国の占領下に入りました。

そして、登場したのがマッカーサーGHQ最高司令官でした。

OK!
俺がJapanを根底から変えてみせるぜ!

おい、Japanese(日本人)よ!
俺の言うこと聞け!

ヤル気満々で乗り込んできたマッカーサーGHQ最高司令官。

米陸軍極東総司令官として、日本陸軍と真っ向から戦ったマッカーサー。

なんだ、この教育は!
戦意高揚ばかりで、軍国主義の最たるものだ!

こんな教科書を使って、
子どもたちを教育できん!

ダメな部分は、
全部黒塗りだ!

その結果、「ほとんど黒塗り」になった教科書。

「ほとんど黒塗り」ならば「教科書にならない」気もしますが、とにかく180度方針転換です。

小さな子どもたちにとっては、軍国主義から民主主義への変化は、

なんか、
全然変わったけど・・・

くらいな感じで、どこまで実感があったかは不明です。

大人にしても、子どもにしても、厳しい配給制度で「食糧不足」だった中、マッカーサーは、

食べ物がないと、
暴動が起きる・・・

我がUnited States(米国)から、
食料を大量にJapan(日本)へ持ってくる!

物資・食料があり余っている米国から、日本へ大量に食料を補給しました。

この点には様々な事がありますが、食糧危機状況だった日本人にとっては、大変良かったでしょう。

憲兵隊・特高がウロウロしていて、「米軍の空襲で、いつ死んでもおかしくない」戦前の生活。

復興には時間がかかりましたが、一気に自由な雰囲気になりました。

それは、多くの日本人にとっては、「地獄から天国へ」と言う気持ちだったでしょう。

その中、「東大合格者数」とともに、「異常に自由な雰囲気」の武蔵が評価されたのかもしれません。

「御三家」の浸透

武蔵中学・高校のかつての校舎(新教育紀行)

神奈川御三家、など地域に応じた「御三家」を冠する名称もあります。

「名門校をまとめる」考え方が、受験界には昔からあります。

この「御三家」という言葉が、受験界に浸透しているのは様々な理由があります。

一つの理由は、「御三家」の一言で「名門校三校をまとめて言える」便利さがあります。

うちは、
A中学、B中学、C中学の合格者が多いです!

そして、
D中学、E中学にも強いです!

塾生を増やすために、塾は「自分達の実績をアピール」する必要があります。

このように、「色々な学校に強い」と説明するのは良いですが、

うちは
御三家に強いです!

と言えば、具体的学校名を出さなくても「名門校全般に強い」ことの意味になります。

数多くの学校名を上げずに「御三家に強い」で、「合格実績が非常に良い」事が表現できます。

これは、非常に楽で「分かりやすい」です。

アピールする際は、「分かりやすいこと」「シンプルであること」は、非常に大事です。

そして、なんとなく「高貴な感じのする」言葉の御三家。

徳川時代、紀伊・尾張・水戸だった御三家。

「ごさんけ」という日本語の響きも、なかなか良いです。

「格調高い感じ」もあります。

御三家と呼ばれる学校に通う生徒・卒業生もまた、嬉しい感じがあるのも事実でしょう。

そして、受験業界の塾にとっては、「シンプルで格調高い雰囲気」である御三家。

うちは
御三家に沢山合格者を出しています!

とアピールしたくなる気持ちになるのは、当然の成り行きでした。

そして、受験業界で「確固たる地位」を築いた男子御三家・女子御三家。

御三家新入り:武蔵

武蔵中学・高校内のすすぎ川(新教育紀行)

実際、武蔵卒の僕も「御三家」と「格調高い・別格扱い」は、ちょっと違う感じがして嬉しいものです。

学校制度の変更もあり、戦前から戦後にかけて変わった御三家。

その時に変わったのは、戦前と戦後の日本が「全然違う国」であることも、大きな要因だったでしょう。

戦後「新入り」となった武蔵。

学校名設立年
開成1871年
麻布1895年
武蔵1922年(前身)
戦前「私立御三家」設立年

設立年では、開成・麻布にだいぶ水を開けられていて、開成とは50年も違います。

いわば、武蔵にとって、開成・麻布は先輩でもあります。

戦後、一気に民主主義が広まり、官民一体となって急速すぎる経済成長を遂げた日本。

この時代は、各家庭にとって「明るい未来」が見えていたでしょう。

とにかく、毎年給与が上がり、国家が急成長していた日本。

「東大合格者数のみが判断基準」ならば、武蔵以外にも「新入り候補」はあったでしょう。

この異様な好景気の、一種異常な明るさの中で、

武蔵の自由な校風は
大変良い!

うちの子も自由に、のびのびと
成長させたい・・・

自由な雰囲気で、
大学進学実績が良いなら、ベストだ!

学校が広々しているし、
子どもたちに勉強をやらせすぎないのが良い!

「自由過ぎる校風で、合格実績抜群の武蔵」が、当時の日本の状況にピッタリ合ったのでしょう。

武蔵の進学実績不振:御三家の行方

武蔵中学・高校の「すすぎ川」(新教育紀行)

2000年頃から、武蔵高校の東大進学実績が急落しました。

これは卒業生にとっては、

えっ?
何これ?

驚きというレベルではなく、「衝撃的」とも言える非常事態でした。

進学実績は「急落」ではなく「激減」でした。

ちょっと調子が
悪かったのかな・・・

少ししたら、
元に戻るかな・・・

と思っていたら、「進学実績の減少傾向」が続きました。

そして、

武蔵は、
もはや御三家ではない。

と言われるようになりました。

「もはや御三家ではない」ならば、まだ良いですが、中には

武蔵は、
もう終わりだな。

なんて声も聞こえてきました。

「武蔵、凋落」みたいな記事が、出たことがあります。

これは、武蔵中・高の生徒・保護者・卒業生にとっては、大変残念なことです。

別に御三家で、
なくてもよい。

と言う方もいます。

「御三家」の基準が、戦前と同じ「一高(東大)合格者数」である時。

その時は、もはや武蔵は御三家から外れるでしょう。

「何を基準に御三家か」が、最も大きな問題となります。

仮に武蔵が外れるとすると、「どの学校を入れて、それは何を基準とするのか」が大事です。

「御三家」が「どこか特定の機関の認定による」ならば、その機関が「いくつかの指標」をもとに

御三家は、
A,B,Cです。

と、決定するでしょう。

日本らしく、「なんとなく」決まったまま浸透している言葉のため、曖昧な状況が続いています。

次回は、「今の時代の御三家」に関して、考えます。

新教育紀行

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