センターステージから裏舞台へ引きずり下ろされた西郷〜薩摩藩の底力・「武士だらけ」の薩摩藩・奄美大島の人々と西郷・気持ちが荒れる日々〜|西郷隆盛22・人物像・性格

前回は「人生が一気に暗転した西郷〜超閉鎖的な薩摩・薩摩の海の外への姿勢・超閉鎖性と超開放性・薩摩独自の唯一つの外向き・無限の海へ広がる精神〜」の話でした。

薩摩藩士 西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

薩摩藩の底力:「武士だらけ」の薩摩藩

薩摩藩国父 島津久光(斉彬の異母弟)(Wikipedia)

時の日本政府であった徳川幕府に睨まれ、「捕縛されそうになった」西郷。

もう
死んでもいい・・・

月照と共に自殺しようとしたところを、仲間たちに救出されました。

そして、その西郷を薩摩藩は匿うことに決めました。

下級藩士の
西郷など、どうでも良いが・・・

我が薩摩藩は、
武士・藩士を大事にするのだ!

有難きこと
ごわす。

薩摩藩国父である島津久光とは「生涯、全く合わなかった」西郷。

今回は、生命を助けられることになりました。

薩摩藩出身の幕末〜明治の威人(偉人)たち

藩の内部の武士の人口が、「全人口の5%程度」だった当時。

薩摩藩の「藩士・武士の数の多さ」は有名でした。

どのくらい多かったかというと、「薩摩の全人口の約26%ほどが、藩士・武士だった」のです。

つまり、「武士の人数が普通の藩の5倍存在した」異常な藩が薩摩でした。

藩士・武士の数

・普通の藩:「全人口の5%程度」が藩士・武士

・薩摩藩:「全人口の26%程度」が藩士・武士:他の藩の5倍

これは、極めて異常な事態でした。

他の諸藩と比較すると「武士だらけ」であった薩摩藩。

そして、幕末に猛烈な勢いで維新を先導した薩摩。

表高(公称の石高)で、薩摩77万石、長州37万石、土佐24万石でした。

これだけでも「ずば抜けた存在」だった薩摩。

さらに「武士の数が5倍いる」ということは、単純計算では、

薩摩武士の人数=武力:77万石 x 5 = 385万石 相当

となります。

「徳川・旗本700〜800万石」といわれ「圧倒的存在だった」徳川家。

その徳川の「半分程度の石高に相当する武力」を、薩摩は単独で持っていたのでした。

実際は、これほど単純な話になりませんが「薩摩の抜きん出た武力」の「秘密の源泉」はここにあったのです。

センターステージから裏舞台へ引きずり下ろされた西郷:奄美大島へ

薩摩の視線(新教育紀行)

こうして考えると、西郷が「匿われることになった行き先」の奄美大島。

「島流し」というと「放逐された」印象が強いです。

実際に、当時の薩摩藩以前の日本の歴史においても、「島流し」は罰として頻繁に行われてきました。

一方で、「海を見ていた薩摩」の視点に立ってみると、奄美大島はバリバリの「薩摩の内部」なのです。

お前は
奄美大島にゆけ!

ははっ!

しばらく
隠れておれ!

はっ!

「生き延びた」ことは嬉しいですが、唇を真一文字にする西郷。

こんな
はずでは・・・・・

上士出身の幕末の星たち:左上から時計回りに高杉晋作、木戸孝允、谷干城、板垣(乾)退助(Wikipedia)

この時、33歳だった西郷。

現代でいうと38〜40歳頃になります。

いわば、「40歳前後の体力・気力・知力あふれる時期」に「島流し」の西郷。

そもそも、藩士と言っても「下級」藩士だった西郷。

実際に、幕末維新期に活躍した人物たちの多くは、「上士出身」だったのでした。

前薩摩藩主 島津斉彬(Wikipedia)

その「下級」藩士に過ぎなかった西郷が、

西郷よ。
江戸へゆけ!

ははっ!!

本来の分不相応に前薩摩藩主 島津斉彬に取り立てられ、中央の江戸で活躍しました。

いわば、薩摩の端っこで役所仕事をしていた西郷でしたが、中央に躍り出たのです。

現代で言えば、東京の地方出身の方が、「東京で活躍するのを超えて、米国の中心部で活躍していた」感じでしょう。

あの頃は
危険と背中合わせだったが・・・

充実していた
人生だった・・・

いわば
「邯鄲の夢」ごわすか・・・

いわば「下級藩士にとっては夢のような」センターステージに躍り出て、活躍し続けた西郷。

一気にセンターステージから引きずり下ろされ、さらには表舞台から消されてしまいました。

そして、裏舞台へ行くことになった西郷は、失意のどん底になりました。

・・・・・

奄美大島の人々と西郷:気持ちが荒れる日々

のちに「敬天愛人」で知られる「聖人君子」のような「大人物」の西郷。

実際は、若い頃はかなり「好き嫌いの激しい」苛烈な人物でした。

奄美大島に流された西郷は、島の人々と接して、

何を
言っているか、全然わからん!

まず、奄美大島の言葉が、全然理解できません。

一体
なんなんだ!

失意のどん底にいた西郷は、イライラして茫然自失となりました。

島の人々にとっては、本島から来た西郷は、

この人、
誰?

なんとなく疎外感があります。

奄美大島に到着して一ヶ月たった頃、同志の大久保に送った手紙で西郷は、

ここの人たちは、
けとうじん(毛唐人)で・・・

かなり侮辱的な表現をしていたのでした。

この人たちは、
毒蛇みたいな連中で・・・

センターステージから一気に裏舞台に「飛ばされた」西郷。

そのイライラに加えて、「言葉が通じない」世界にいることが理解できません。

一体、
おいどんは、どうなってしまうのだ!

どうにも、どうにも
ならんごわす!

島の方々に対して「差別的表現」をしたのは、非常に良くないことです。

それは「現代の視点」であり、当時は「そういう視点」もあったのでしょう。

なにはともあれ、「奄美大島で暮らすしかない」西郷。

こんなところで、
我が人生を空費するのか・・・

西郷の新たな人生が、始まろうとしていました。

新教育紀行

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