人生が一気に暗転した西郷〜超閉鎖的な薩摩・薩摩の海の外への姿勢・超閉鎖性と超開放性・薩摩独自の唯一つの外向き・無限の海へ広がる精神〜|西郷隆盛21・人物像・性格

前回は「入水して自殺しようとした西郷隆盛〜死への願望から一転・薩摩への逃避行・完全に外れた西郷の思惑・斉彬後の薩摩の大変化・奄美大島へ島流し〜」の話でした。

薩摩藩士 西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

人生が一気に暗転した西郷:超閉鎖的な薩摩

前薩摩藩主 島津斉彬(Wikipedia)

目まぐるしい幕末の動乱の時期を、その中心地である江戸で長く過ごした西郷。

元々は、薩摩藩の下級武士の出身でした。

身分制度が厳しかった当時においては、

薩摩藩の
ために・・・

薩摩藩という藩・国家・役所組織の下の方で「活躍する」のが、そもそもの人生の予定だった西郷。

それが非常に開明的であった前薩摩藩主 島津斉彬の登場により、人生が一変しました。

西郷よ。
期待しているぞ・・・

ははっ!

「人生が一変する」ことは、「ある」と言えば「あること」です。

どの程度「一変する」かにもよります。

当時の西郷にとっては、とても大きな変化でした。

京が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

相模・武蔵・上野・・・などの「国境」よりも「藩の境界」の方が遥かに強かった当時。

当時は「藩が国家」のような状況でした。

さらに「藩から出ること」が厳しく制限されている藩も多数ありました。

薩摩藩では、ちょっとした旅行すら、

薩摩を
出ることはまかりならぬ!

と、厳しく制限されていたのでした。

特に、薩摩藩は江戸時代の長きにわたって「異常に閉鎖的な藩」でありました。

もし、今の日本で、

日本から出国しては
ならない!

と言われたら、

えっ?
つまらない・・・

と誰しも嫌になります。

「藩=国家」のような感じであり、大藩の薩摩藩といえどもそれほど広くはありません。

薩摩藩は、現在の「鹿児島県と宮崎県の一部」程度です。

この事実を考えれば、交通の発達を考慮して現代ではどのような感じでしょうか。

「藩を出られない」ということは、九州にお住まいの方が、

九州から出ては
ならない!

ということくらいかもしれません。

寺子屋(Wikipedia)

基本的に「閉鎖的」だった江戸時代の日本社会。

これは、
ちょっと嫌だな・・・

息がつまりそうな
思いがする・・・

現代人の感覚ならば、誰しも「嫌になる」でしょう。

見方によっては、現代よりも「良い面もあった」江戸時代の日本。

一方で、非常に閉鎖的であり身分制度によって「立場・生き方が一生固定された」社会でした。

どの藩も基本的に閉鎖的で、「藩単位でそれぞれの人生が成立」していました。

その中で、薩摩藩は「閉鎖的」を超えて「超閉鎖的」社会だったのです。

薩摩の海の外への姿勢:超閉鎖性と超開放性

薩摩の視線(新教育紀行)

「超閉鎖的」社会の薩摩でしたが、他の藩には見られないことが多数ありました。

当時の「日本の端」に位置した薩摩。

日本国内限定で見れば、「端っこ」に位置します。

世界で見ると「世界から日本への入口」または「日本から世界への出口」です。

薩摩の視線(新教育紀行)

本来であれば、薩摩藩の考え方は、本拠地である桜島付近の「鶴丸城を中心とする視線」となります。

「三方向を海に囲まれた」特殊な国家であった薩摩。

錦江湾(新教育紀行)

東京湾と似て、大きな錦江湾という湾があります。

実際に錦江湾を前にすると、不思議な気持ちになります。

非常に大きな海が「陸地に入り込んできている」ので、反対側にも「陸地がある」のです。

当時の薩摩藩にとっては「錦江湾の向こうも薩摩」でした。

海は非常に「身近な存在」だったのです。

この意味で「三方向を海に囲まれた」を超えて「全面的に海に囲まれていた」薩摩。

薩摩の視線(新教育紀行)

その視線・思想が「海に向かう」のは当然のことでした。

薩摩の視線は、どんどん海へ、海へと広がってゆきます。

それは、まるで「無限に広がる領土」でした。

薩摩の視線(新教育紀行)

薩摩の視線は「日本を見る」よりも錦江湾などを見て、「少し内向き」になります。

「海への視線が強まる」中、自分達が「実際に立って生きている」薩摩の土が最優先です。

薩摩の視線(新教育紀行)

そして、グッーっと視線が南の海に広がってゆきました。

南へ、南へ、どこまでも広がってゆきました。

薩摩の視線(新教育紀行)

さらに、「海に向かった視線」から、薩摩中心が海上に移動したかのようになりました。

そして、九州の南には多くの島々があります。

種子島・屋久島・奄美大島・琉球(沖縄)などです。

薩摩独自の唯一つの外向き:無限の海へ広がる精神

薩摩の視線(新教育紀行)

島を軸に薩摩藩の精神的領土はググッと広がりました。

我が薩摩は
海に乗りだすぞ!

それらの島々は、貴重な陸地です。

視線を海・外洋へ向けた薩摩藩は、琉球藩(沖縄)を従えて属国化しました。

琉球には琉球王・尚氏が国を納めていましたが、江戸時代初期に薩摩は征服していました。

そして、琉球は薩摩と明(中国)の両方に属する特異な国だったのでした。

島々は、海で活動する際に人間たちが立ち寄れる貴重な土地でした。

そして、その間の島々も

これらの
外洋の島々は、全部薩摩のもの!

こんな気持ちになり、「海へ、海へ」と視線が向いてゆきました。

薩摩の「外洋への進出」する気持ちは、どんどん膨れ上がってゆきました。

この「海へと向かう視線」は、他の海に面した藩である長州藩・佐賀藩・土佐藩などにもありました。

一方で、これほど「海へ海へと向かう」考えは「海を中心とする精神」という非常に特殊なものでした。

「海に開いていた」というよりも「海を中心としていた」精神。

当時の日本では「薩摩藩しか持っていなかった」と言っても過言ではないでしょう。

新教育紀行

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