お由羅騒動の巨大な衝撃と西郷隆盛〜迫田奉行の届かぬ直訴・農民と西郷青年・島津久光との「生涯噛み合わない」関係・一心同体だった西郷と大久保・極貧の大久保家〜|西郷隆盛12・青年時代・藩庁勤務

前回は「郡方書役として藩庁勤務を始めた西郷〜算盤を懸命に学ぶ姿勢青年・八公二民・異常に重い薩摩年貢・変革を志す西郷青年・島津薩摩藩の異常性〜」の話でした。

西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

迫田奉行の届かぬ直訴:農民と西郷青年

薩摩藩士の中では、下級藩士だった西郷青年。

「下級藩士」であっても武士であり、農民よりはだいぶ良い状況です。

八公二民では、農民の暮らしは
悲惨だ・・・

17歳から約10年間、農民・農村の現実・実態を目の当たりにした西郷青年。

これは、
なんとかしなければ・・・

ここで、西郷青年の上司だった迫田奉行は、人情に厚い人物でした。

我が薩摩藩の
百姓たちは、可哀想です・・・

年貢を
減免すべきです!

と、迫田奉行は藩庁に直訴しました。

何言ってんだ!
我が薩摩藩の財政がどうなってもよいのか?

ところが、即座に却下されます。

無念・・・

そして、迫田奉行は辞職してしまいます。

私に
何か出来ないか・・・

下士とはいえ、武士であることから「農民よりは良い立場」である西郷青年・西郷家。

ところが、子供が多い中収入は低く、非常に困窮します。

西郷青年が20歳の時には、どうにもならなくなり、豪商に大きな借金をします。

我が家は、
とても貧しい・・・

非常に貧しい西郷家でしたが、皆で仲良くし、西郷青年もまた真面目に働きました。

お由羅騒動の巨大な衝撃:島津久光との「生涯噛み合わない」関係

後の島津国父 島津久光(斉彬の異母弟)(Wikipedia)

西郷青年が22歳の1850年、大ショックな事件が発生します。

当時、藩主だった島津斉興は、長男斉彬を嫌い、愛妾:お由羅の子である久光を擁立しようとします。

そして、斉彬派と久光派の二派に分裂し、激しい抗争をします。

ここで、斉彬派は切腹・島流しを含む重大な処分者が50名ほど出ます。

これは
酷い・・・

なかでも西郷青年が兄のように慕っていた、5歳上の赤山靭負。

赤山靭負は切腹を命じられ、27歳で切腹して果てます。

そして、赤山の血染めの肌着を西郷は貰い受けます。

こんなことが・・・・・

許されて
良いのか・・・

22歳の青年にとっては、あまりに辛い事件でした。

おのれ、
久光め!

この時以来、西郷は久光とは「生涯敵」となります。

この後、さらに西郷が「島津久光を敵視する」大事件が勃発します。

そして、西郷隆盛と島津久光は「生涯噛み合わない」関係となりました。

このことは、西郷の人生に巨大な暗い影を落とし続けてゆきます。

一心同体だった西郷と大久保:極貧の大久保家

大久保 利通(国立国会図書館)

この「お由羅騒動」では、大久保家もまた大打撃を受けます。

父・利世が島流しとなり、大久保一蔵(後の利通)自身も謹慎処分となります。

元々貧しかった大久保家は、極貧となります。

苦しい・・・

一蔵(当時の大久保の名前)どん!

苦しいが、
一緒に乗り切ろう!

吉之助さぁ!

3つ年上の西郷を兄のように慕い、生活・暮らしも世話になった大久保。

こういう逸話もあります。

貧しい西郷家でご飯を分け合って食べてようとした時のこと。

・・・・・

あら〜、一蔵さんも
来てたのね。

自分の家で「食べるものがなくなった」大久保少年は、黙って西郷家の食卓に座っていたのでした。

一蔵どん!
よく来たごわす!

一緒に
食事しよう!

もともと、大人数の家庭に対して食料が乏しかった西郷家。

その少ない食事を分けて、大久保少年にも分け与えたのでした。

有難か・・・

この話は「創作」の可能性がありますが、西郷と大久保の間柄をよく示しています。

まさに「実の兄弟をはるかに超えた」強い絆で結ばれていた西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵(利通)。

もはや「切っても切れない」義兄弟以上の仲となってゆきました。

明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

その後、この二人が明治維新の原動力となります。

さらにその後に「相闘うことになる」とは、当時の二人とも夢にも思いませんでした。

新教育紀行

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