前回は「郡方書役として藩庁勤務を始めた西郷〜算盤を懸命に学ぶ姿勢青年・八公二民・異常に重い薩摩年貢・変革を志す西郷青年・島津薩摩藩の異常性〜」の話でした。
迫田奉行の届かぬ直訴:農民と西郷青年
薩摩藩士の中では、下級藩士だった西郷青年。
「下級藩士」であっても武士であり、農民よりはだいぶ良い状況です。
八公二民では、農民の暮らしは
悲惨だ・・・
17歳から約10年間、農民・農村の現実・実態を目の当たりにした西郷青年。
これは、
なんとかしなければ・・・
ここで、西郷青年の上司だった迫田奉行は、人情に厚い人物でした。
我が薩摩藩の
百姓たちは、可哀想です・・・
年貢を
減免すべきです!
と、迫田奉行は藩庁に直訴しました。
何言ってんだ!
我が薩摩藩の財政がどうなってもよいのか?
ところが、即座に却下されます。
無念・・・
そして、迫田奉行は辞職してしまいます。
私に
何か出来ないか・・・
下士とはいえ、武士であることから「農民よりは良い立場」である西郷青年・西郷家。
ところが、子供が多い中収入は低く、非常に困窮します。
西郷青年が20歳の時には、どうにもならなくなり、豪商に大きな借金をします。
我が家は、
とても貧しい・・・
非常に貧しい西郷家でしたが、皆で仲良くし、西郷青年もまた真面目に働きました。
お由羅騒動の巨大な衝撃:島津久光との「生涯噛み合わない」関係
西郷青年が22歳の1850年、大ショックな事件が発生します。
当時、藩主だった島津斉興は、長男斉彬を嫌い、愛妾:お由羅の子である久光を擁立しようとします。
そして、斉彬派と久光派の二派に分裂し、激しい抗争をします。
ここで、斉彬派は切腹・島流しを含む重大な処分者が50名ほど出ます。
これは
酷い・・・
なかでも西郷青年が兄のように慕っていた、5歳上の赤山靭負。
赤山靭負は切腹を命じられ、27歳で切腹して果てます。
そして、赤山の血染めの肌着を西郷は貰い受けます。
こんなことが・・・・・
許されて
良いのか・・・
22歳の青年にとっては、あまりに辛い事件でした。
おのれ、
久光め!
この時以来、西郷は久光とは「生涯敵」となります。
この後、さらに西郷が「島津久光を敵視する」大事件が勃発します。
そして、西郷隆盛と島津久光は「生涯噛み合わない」関係となりました。
このことは、西郷の人生に巨大な暗い影を落とし続けてゆきます。
一心同体だった西郷と大久保:極貧の大久保家
この「お由羅騒動」では、大久保家もまた大打撃を受けます。
父・利世が島流しとなり、大久保一蔵(後の利通)自身も謹慎処分となります。
元々貧しかった大久保家は、極貧となります。
苦しい・・・
一蔵(当時の大久保の名前)どん!
苦しいが、
一緒に乗り切ろう!
吉之助さぁ!
3つ年上の西郷を兄のように慕い、生活・暮らしも世話になった大久保。
こういう逸話もあります。
貧しい西郷家でご飯を分け合って食べてようとした時のこと。
・・・・・
あら〜、一蔵さんも
来てたのね。
自分の家で「食べるものがなくなった」大久保少年は、黙って西郷家の食卓に座っていたのでした。
一蔵どん!
よく来たごわす!
一緒に
食事しよう!
もともと、大人数の家庭に対して食料が乏しかった西郷家。
その少ない食事を分けて、大久保少年にも分け与えたのでした。
有難か・・・
この話は「創作」の可能性がありますが、西郷と大久保の間柄をよく示しています。
まさに「実の兄弟をはるかに超えた」強い絆で結ばれていた西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵(利通)。
もはや「切っても切れない」義兄弟以上の仲となってゆきました。
その後、この二人が明治維新の原動力となります。
さらにその後に「相闘うことになる」とは、当時の二人とも夢にも思いませんでした。
次回は上記リンクです。