前回は「記述の書き方が分かるコツ・ポイント〜戦国大名の戦略を考える姿勢・自分の好きなテーマを考える・歴史のストーリーを考える姿勢・個性的人物たちの物語への好奇心〜」の話でした。
自分の好きなテーマ・趣味から記述力を養成
「何かを考えて、自分なりに文章にまとめる」記述問題。
答えを下記の(ア)〜(エ)から
選びなさい。
であれば、
この問題は、
ここが〜で、〜だから・・・
と頭の中で考えて、選択肢を選びます。
選択肢が合っているか、間違っているかも問題ですが、知識が問われていることが多い選択肢・答えのみの問題。
対して、記述問題は知識も大事かもしれませんが、多くは問題文や知っていることを構成する力が必要です。
そのため、「ただ答えを書く」とは全く異なる記述問題。
何を、どう考えて
書けばいいのかな・・・
このような記述問題には、問題の文章から流れやキーワードを読み取るコツはあります。
・「異なる点・違い・特徴」などをしっかり押さえる
・文章の流れに応じながら、ある程度は自分の考えを入れる
そうしたコツを学ぶことも大事かもしれませんが、まずは「自分で書く」ことに慣れましょう。
それには、自分の好きなテーマを自分なりに考えて書いてみることも大事です。
そのように「書いてみる」ことから記述力は要請されます。
戦国大名の戦略と版図構築を考える姿勢:領土拡大と減少の理由
室町時代末期から戦国時代にかけて、日本の様々な地域において数多くの戦国大名が登場しました。
弘治・永禄・元亀・天正の時代は、群雄割拠して多くの大名たちが鎬を削って争いました。
中でも、下記の四名はそれぞれ広大な領土を有する戦国大名となりました。
・織田信長
・武田信玄(晴信)
・上杉謙信(長尾景虎・政虎・輝虎)
・毛利元就
これらの四名の戦国大名には、領土拡張の戦略において、それぞれ大きな特徴があります。
領土拡張戦略が、この中の一名が他の三名と大きく異なる点を考え、説明して下さい。
戦国時代を飾った織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利元就の四名。
この中では、ダントツの知名度を誇る信長。
それに続くのが武田信玄と上杉謙信でしょう。
そして、少し地味な存在の毛利元就。
毛利元就が地味な理由は、信長→秀吉→家康の流れに、それほど大きく関わっていないことがあります。
一方で、幕末で主役となった長州藩は毛利家です。
薩摩藩は、ここでは登場しませんが九州の島津家です。
戦国末期、一時は盛況を誇った武田家は滅亡します。
江戸時代には織田家は大幅に縮小して1万石の小大名、上杉家は15万石の中堅大名として存続しました。
日本の歴史に最も大きな影響をもたらしたのは、信長以外では信玄でも謙信でもありませんでした。
この意味において「最も日本史に影響を与えた」のは、この中では毛利元就かもしれません。
この四名で「一名が他の三名と異なる」となると、「異なる一名」とは基本的に織田信長となります。
余は、天下統一の
一歩手前まで行ったのだ!
・自分の趣味や好きなことを選んでテーマを決め、考えて書いてみる
・まずは「書いて、自分で考えたことをまとめる」ことに慣れて、出来れば好きになる
戦国大名の版図の変遷:織田家の異常さ
天下統一目前まで行っていた信長率いる織田家。
織田・武田・上杉・毛利の四つの家の勢力・版図の変遷を見てみましょう。
1552〜55年頃は、毛利家が勢力を拡大し始め、有力大名となりました。
信長の織田家は、「尾張守護代:織田家の三家老の織田の一つ」であり、小さな勢力です。
甲斐守護である武田は順調に勢力を拡大し、まだ長尾だった上杉家は越後の半分強を占めます。
約20年後には、各大名が勢力を拡張しましたが、織田家だけが「異常な勢力拡張」となっています。
毛利・武田・上杉もまた大きく勢力拡大していますが、1552〜55年ごろから「想定内」の拡張です。
一方で、信長率いる織田家のみは「誰もが想像だにしない」レベルの猛烈な勢いの拡大です。
この尋常ならざる急激な領土の膨張をもたらした織田信長とその家臣団。
余は、他の
大名たちとは全く違う!
「日本史上最大の革命児」とも言われる、織田信長。
大々的な楽市楽座、鉄砲を主体とする新基軸の合戦など革命的要素は多数あります。
実際には、それらは武田信玄・上杉謙信・毛利元就らの大名も「実行していた」こともあります。
信長が違うのは「それらを大々的に、徹底的に実行した」ことでした。
余は、他の
大名が考えもしなかったことをした!
本能寺の変勃発時の1582年6月には、日本の中枢ほぼ全土を織田家が把握しました。
この急激すぎる勢力拡張の陰には「信長しか実行しなかった」ことがありました。
「急速に広がった織田家の領土」を基に考えてみましょう。
次回は下記リンクです。