「大風呂敷」の後藤新平〜藩祖伊達政宗の影響・天下の伊達男と天下人豊臣秀吉と徳川家康との衝突・生まれた時代と場所・江戸時代から明治時代へ〜|後藤新平2・少年時代・性格

前回は「医師の道から大政治家になった後藤新平〜予防の未来を切り開く・「銃弾・砲弾より怖い」伝染病・児玉源太郎との名コンビ誕生へ・西南戦争から日清戦争へ〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

生まれた時代と場所:江戸時代から明治時代へ

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

明治・大正・昭和の時代を駆け抜け、大政治家・官僚であり医師でもあった後藤新平。

世界で稀に見る超親日国である台湾でも、後藤は非常に大きな足跡を残しました。

ドイツに留学したこともあり、当時非常に先進的発想を持っていた後藤。

爆走する暴走機関車のようなパワーを持って、各方面で大活躍をしました。

医師から内務省の高級官僚へ転職し、内務大臣などを務め、東京市長(現都知事)にもなりました。

まさに縦横無尽の活躍をした人物で、スケールがあまりに巨大過ぎる人物です。

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山本権兵衛 内閣総理大臣(国立国会図書館)

後藤さんには
内務大臣になって頂きたい・・・

うむ!
良いでしょう!

かなりスケールが大きい山本権兵衛の要請で内務大臣に就任しました。

満鉄総裁も務め、人物像を描きにくいほど偉業が多過ぎる人物であったのが後藤新平でした。

その後藤新平は、どのように天下の大人物となっていったのでしょうか。

1857年の幕末の風雲期に、仙台藩に誕生した後藤新平。

11歳の時の1868年に、明治維新となりました。

11歳になったけど、
世の中が大きく変わったようだ・・・

まさに「激動期」を、生きてゆくことになります。

今の小学校2〜3年生くらいになると、子どもなりに色々なことが分かってきます。

その8~9歳頃は、江戸時代の封建制度にあり、仙台藩という大藩で育った後藤。

仙台藩って、
もしかして・・・

かの有名な伊達政宗が藩祖の仙台藩です。

仙台藩初代藩主 伊達政宗(Wikipedia)

伊達政宗は、
好きだよ!

カッコ
いい!

伊達男」の形容詞の語源になったと言われるほどの、戦国時代最後の大人物・伊達政宗。

小さな頃は、

仙台藩を
背負うぞ!

という気持ちでいた後藤新平の若き頃に、伊達政宗の存在は非常に大きかったでしょう。

天下の伊達男と天下人豊臣秀吉・徳川家康との衝突

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「生まれるのが遅過ぎた」と言われる政宗。

能力的には、「織田信長・豊臣秀吉らと同等で、天才的だった」とも言われるほどの人物です。

遅過ぎた政宗は奥羽で敵を次々に倒し、天下に覇を唱えます。

これからは
伊達の世だ!

もっと領土を
拡大するのだ!

陸奥で大きな勢力を築き上げ、150万石ほどの大大名となった伊達政宗。

我が伊達家の
時代をつくるのだ!

元々、奥州探題格の家柄だったとは言え、「一つの大名」に過ぎなかった伊達家。

その伊達家は伊達政宗の時代に、大きく飛躍しました。

ところが、その時、ある人物が「ほぼ全国を統一」していたのでした。

天下人 豊臣秀吉(Wikipedia)

豊臣秀吉です。

私が
天下を太平に導く・・・

豊臣という新たな姓を
つくって、豊臣家が日本の中心となるのだ!

政宗は、秀吉と一線交えようとも考えます。

ほぼ全国押さえた
豊臣に勝てるか・・・?

・・・・・

勝てる可能性は・・・
ない・・・

悩みに悩んだ挙句、秀吉に降参します。

ちょうど秀吉が小田原の北条攻めをしている時に、秀吉の元に降伏の挨拶に行った政宗。

関白殿下・・・
遅くなりました・・・

遅い!
もう少し遅かったら、ココはなかったかもな・・・

と、若き政宗の首を「ココ」と杖でポンポンとつく秀吉。

名前生年
豊臣(羽柴) 秀吉1537
徳川 家康1542
伊達 政宗1567
戦国大名たちの生年(一部諸説あり)

秀吉よりも30歳も若い政宗。

内心秀吉は、政宗のことは高く評価していたでしょう。

まだ20代の若造で、
これほどの大成功をおさめるとは・・・

まるで亡き右府様(織田信長)を
見ているようだわ・・・

溌剌として、桶狭間の戦いで大勢力・今川家を打ち破った織田信長のような天才性を秘めた政宗。

とにかく、こやつは危険すぎる・・・
味方になるなら、とても頼りになるが・・・

まだまだ政宗の性格が分からん・・・
そして、我が威光を示さねば・・・

「天下惣無事令」を出していた秀吉としては、伊達家を罰する必要があります。

当方に参陣したので、
命は取らぬが・・・

最近得た領土は、
召し上げじゃ!

一時は、150万石近い領土を有していたのに、
秀吉に取り上げられた!

秀吉め、
おのれ・・・

その後、豊臣秀吉から徳川家康の時代となります。

それでもなお、伊達政宗は様々画策して領土拡大を狙います。

我が伊達の領土を
少しでも拡大するのだ・・・

せめて、100万石は
欲しい・・・

徳川幕府初代将軍 徳川家康(Wikipedia)

徳川家康が1603年に徳川幕府を開設し、天下泰平を目論みました。

この頃は、まだまだ豊臣家のパワーが残っていて「豊臣と徳川の二頭体制」でした。

政宗は能力が高すぎ、
野心が強すぎる・・・

早い話が、
危険すぎる・・・

気持ちは
分かるのだが・・・

上昇志向が非常に強い人物で、家康らには常に警戒されます。

もう少し
早く産まれていたら・・・

そして、
もう少し中央に産まれていたら・・・

伊達幕府も
夢ではなかった・・・

この後、時代は伊達政宗の大きな出番のないまま進んでゆきます。

もう少し、
もう少し早く激動の時代を生きたかった・・・

ありあまる能力を持つ伊達政宗にとっては、消化不良のような感じにも感じたかもしれません。

「大風呂敷」の後藤新平:藩祖・伊達政宗の影響

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幕末維新時の藩(「最後の藩主」監修 八幡和郎 光文社)

江戸時代は300程の藩があり、それぞれが「違う国」とも言えるほど、カラーが強い時代でした。

中でも、藩祖(初代藩主)は戦国期を生き抜いた方が多く、藩祖の影響は非常に大きかったのです。

小さな頃から藩祖・伊達政宗の話を聞いていたに違いない、後藤新平。

俺も伊達政宗の
ようになってやる!

と、大志を抱いていたかもしれません。

後藤さんには
内務大臣になって頂きたい・・・

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関東大震災(Wikipedia)

そして、組閣の最中に関東大震災に遭遇しました。

これは・・・

帝都復興院総裁も
兼ねて頂きたい!

良いでしょう!
私が東京を刷新して見せます!

その発想のスケールの巨大さから、この関東大震災を機に、

俺が、
東京を丸ごと作り変えてやる!

と持ち前の爆走パワーを発揮しますが、

後藤の目標は
荒唐無稽すぎる!

後藤がやっていることは、
滅茶苦茶だ!

また、後藤の
「大風呂敷」だな!

のちに大人物となり「大風呂敷」とも言われた後藤新平。

それは、大人物で「大風呂敷」であった伊達政宗からの影響も大きかったでしょう。

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