強き意気込み持っていた後藤新平〜伊達政宗と共通する巨大な個性・「大風呂敷」の慶長遣欧使節・名家と名藩のゆくえ〜|後藤新平3・少年時代・性格

前回は「「大風呂敷」の後藤新平〜藩祖伊達政宗の影響・天下の伊達男と天下人豊臣秀吉・徳川家康の衝突・生まれた時代と場所・江戸時代から明治時代へ〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

伊達政宗と共通する巨大な個性:「大風呂敷」の慶長遣欧使節

戦国大名 伊達政宗(Wikipedia)

後に外務大臣・内務大臣・満鉄総裁・東京市長(都知事)を歴任した大政治家、後藤新平。

関東大震災の帝都復興計画の際には、あまりに巨大な計画のために「大風呂敷」と言われます。

さらに、満鉄総裁時などには、人事などで強権を振るい、反対論者を黙らせた後藤。

俺は、
最高意思決定者なのだ!

非常に個性的で、見方によっては「我を通す」人物でした。

おそらく、幼い頃から、かなり強気の人物だったのでしょう。

出身藩仙台藩藩祖の伊達政宗と後藤新平。

共通項は多そうです。

本来、藩祖に対しては非常に敬う姿勢が強く、「伊達政宗」と敬称で呼びます。

後藤のその後の人生を考えると、

俺も伊達政宗の
ようになってやる!

くらいが、ちょうど良いでしょう。

共通項の多い、伊達政宗と後藤新平。

それは、後藤新平が「伊達政宗を意識した」結果なのでしょう。

後に「大風呂敷」と言われた後藤でしたが、伊達政宗も「大風呂敷」でした。

1613年に慶長遣欧使節派遣に踏み切った伊達政宗。

我が伊達藩の使節を
スペインへ送るのだ!

新教育紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

当時は、豊臣家が残っていたとはいえ、関ヶ原の合戦後10年以上経過していました。

徳川幕府
開設!

当時は「幕府」をいう言葉はなく、「幕府」という言葉は明治頃から使われた説が有力です。

名称は「大公儀」などでしたが、1603年に徳川家康が征夷大将軍となり徳川の世となった時代。

1613年は、1542年生まれ(諸説あり)の家康は71歳でしたが、

まだまだ
元気だ!

今で言うと85歳くらいでしたが、とても元気に過ごしていた家康。

徳川家を富ますには、
貿易は必須!

海外、特に当時は南蛮と言われていた世界最強国であったスペインとの貿易を推進します。

当時、「黄金の国ジパング」と言われ、ある程度の注目を浴びていた日本。

ところが、当時、世界最強国スペインと日本では国力では比較の対象にならない状況でした。

そこで、スペインは、

私たちと貿易
したいなら、キリスト教を認めてください!

「キリスト教布教許可」を条件に迫ってきました。

とにかく「上から目線」だったスペイン。

私たちと付き合いたいなら、
私たちの要望を全て呑むこと!

という姿勢でした。

軍事力では、当時世界最強の一角だった日本。

別に合戦(戦争)なら
負ける気がしないが・・・

スペインは世界中に領土を持っており、
科学技術は遥かに進んでいる・・・

スペインなどの「外国とのつながり」は最重要事項でした。

キリスト教・・・
キリシタンか・・・

キリスト教徒増加は、「日本の国家体制に甚大な影響を与える」と懸念する家康。

貿易はぜひしたいが、
もう少しよく考えねば・・・

家康が逡巡していると、

我が伊達藩からスペインへ
使節派遣を送りたいです!

伊達?
一体何を考えている・・・

外国との折衝は「徳川がやること」と考えていた家康。

これは徳川の問題で、
伊達は関係ないんだが・・・

家康様!
ぜひ、許可を!

まあ、
行かせてみるか・・・

当時は、徳川家康の許可を得なければ、外国との折衝は一切不可の状況でした。

何かのことで、家康の機嫌を損ねようものなら、

伊達藩は
廃止!

と言いかねないほど、絶大な力を持っていた徳川。

ところが、伊達家もまた強力な軍事力を持っており、

仮に徳川が攻め込んできても、
守り切って見せよう!

という自信を持っていた政宗。

遣欧使節を強行して、1613年に支倉常長たちを船で出発させました。

支倉常長よ!
頼むぞ!

慶長遣欧使節 支倉常長(Wikipedia)

ははっ!

この伊達政宗の慶長遣欧使節の「本当の狙い」は諸説あります。

伊達政宗が「徳川幕府打倒を考えていた」説もあります。

いずれにしても、スペインとの交易(貿易)は多大なメリットがあります。

スペインとの交易(貿易)・外交のメリット

・貿易による莫大な収入

・海外の最先端の文物・書物や文化・知識

デメリットとしては「キリシタンとの関係」でしたが、政宗はメリットに目を向けていました。

我が伊達は日本を代表する
大名だ!

徳川がどうであろうと、
我が伊達は「世界の伊達」なのだ!

そういう気概を持っていたであろう伊達政宗。

おそらく、当時の日本で最も優れた国際人が伊達政宗でした。

「日本の一つの藩(国)」に過ぎなかった仙台藩がスペインへ使節派遣したのは「大風呂敷」だったかもしれません。

視野を大きくして、
世界に乗り出すのだ!

中学から高校の歴史の教科書では、軽く扱われがちな「慶長遣欧使節」。

伊達政宗・伊達藩のみならず、当時の日本の対外姿勢を考える上では、非常に大事な出来事でした。

仙台藩の立ち位置:全国3位の石高と高い名声

幕末維新時の藩(「最後の藩主」監修 八幡和郎 光文社)

各藩が、「国」のような存在だった江戸時代の幕藩体制。

現代、私たちが「日本人」であることを意識するように仙台藩出身の方は、

私は
仙台出身だ!

という思いがあったのです。

そして、当時は、藩が序列化され、徳川家以外には御三家・御三卿という名家がいました。

薩摩藩・長州藩と同様に「外様藩」として、家格は高くないものの、仙台藩は62万石(表高)を誇ります。

徳川御三家最大の尾張藩とほぼ同等でした。

62万石と言ったら、
薩摩77万石に近いね。

かなり
多いわね。

加賀102万石、薩摩77万石に次ぐ石高を持っていた仙台藩。

さらに、伊達政宗以来の熱心な開墾政策により、実高は優に100万石を超える生産力を持っていました。

仙台藩って、
すごい藩ね・・・

有名な「伊達」の名前に、日本全国で有数の強い力を持った家・藩が、仙台藩だったのです。

この意味においては、薩摩は別格としても、毛利・長州藩よりも「強い力を持っていた」とも言えます。

「東北随一」の仙台藩出身の後藤。

俺は、大仙台藩
出身なのだ!

と幼き頃から、強い意気込みだったでしょう。

強き意気込み持っていた後藤新平:名家と名藩のゆくえ

新教育紀行
幕末の各藩の姿勢:図解幕末史(インフォレスト)

こういう意気込みを持つことは、大事なのでしょう。

当時の藩士たちは「自らの藩の意識」を非常に強く持っていました。

拙者は、
伊達家の仙台藩です!

おいどんは、
島津家の薩摩藩ごわす・・・

後藤の勝ち気な性格は、この背景があったのでしょう。

そして、「負けん気が非常に強い」性格で優秀だった後藤は山口多聞と似ている面があります。

「名家・名藩」出身で、相応の気位を持ち、大いに意気込む後藤。

俺が、大仙台藩を
背負ってゆくのだ!

そして、後藤の「強い負けん気」を更に育てたこと。

それは、仙台藩が「名家・名藩」ゆえに幕末維新期に大きな役割を果たすからでした。

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