前回は「後藤新平 2〜幼き頃に感じたこと〜」の話でした。

強気の源泉
後に外務大臣・内務大臣・満鉄総裁・東京市長(都知事)を歴任した大政治家、後藤新平。
関東大震災の帝都復興計画の際には、あまりに巨大な計画のために「大風呂敷」と言われます。
さらに、満鉄総裁時などには、人事などで強権を振るい、反対論者を黙らせた後藤。

俺は、最高意思決定者なのだ!
非常に個性的で、見方によっては「我を通す」人物でした。
おそらく、幼い頃から、かなり強気の人物だったのでしょう。


出身藩仙台藩藩祖の伊達政宗と後藤新平。
共通項は多そうです。
本来、藩祖に対しては、非常に敬う姿勢が強く、「伊達政宗公」と敬称で呼びます。
しかし、後藤のその後の人生を考えると、



俺も、伊達政宗のようになってやる!
くらいが、ちょうど良いでしょう。
共通項の多い、伊達政宗と後藤新平。
それは、後藤新平が「伊達政宗を意識した」結果なのでしょう。
仙台藩の立ち位置
各藩が、「国」のような存在だった江戸時代の幕藩体制。


現代、私たちが「日本人」であることを意識するように、仙台藩出身の方は「私は仙台だ!」という思いがあったのです。
そして、当時は、藩が序列化され、徳川家以外には、御三家・御三卿という名家がいました。
薩摩藩・長州藩と同様に「外様藩」として、家格は高くないものの、仙台藩は62万石(表高)を誇ります。
62万石と言ったら、薩摩77万石に近いね。
かなり多いわね。
加賀102万石、薩摩77万石に次ぐ石高を持っていた仙台藩。
さらに、伊達政宗以来の熱心な開墾政策により、実高は優に100万石を超える生産力を持っていました。
すごい藩ね。
有名な「伊達」の名前に、日本全国で有数の強い力を持った家・藩が、仙台藩だったのです。
この意味においては、薩摩は別格としても、毛利・長州藩よりも「強い力を持っていた」とも言えます。
「東北随一」の仙台藩出身の後藤。



俺は、大仙台藩出身なのだ!
と幼き頃から、強い意気込みだったでしょう。
強き意気込み
こういう意気込みを持つことは、大事なのでしょう。
当時の日本人は、大抵の方は「自らの藩の意識」を非常に強く持っていました。
後藤の勝ち気な性格は、この背景があったのでしょう。
そして、「負けん気が非常に強い」性格で優秀だった後藤は、山口多聞と似ている面があります。
「名家・名藩」出身で、相応の気位を持ち、大いに意気込む後藤。



俺が、大仙台藩を背負ってゆくのだ!
そして、後藤の「強い負けん気」を更に育てたこと。
それは、仙台藩が「名家・名藩」ゆえに、幕末維新期に大きな役割を果たすからです。