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後藤新平①〜医師から優れた政治家へ〜|威人紀行

前回は「山口多聞①〜開成の永遠に輝く星〜」の話でした。

今回は、後藤新平をご紹介します。

後藤新平(Wikipedia)
目次

医師の道へ

米国・英国などの海外列強が、大挙して押し寄せてきた幕末の1857年に生まれた後藤新平。

徳川幕府が揺れる中、仙台藩に生まれます。

医師を志した後藤は、愛知県医学校(現、名古屋大学医学部)に進み、勉強に大いに励みます。

後に政治家として、大きな功績を残した後藤新平。

後藤の活躍の根幹は「医学を懸命に学び、医師として懸命に貢献した」ことでした。

医師から政治家に転身した方は、同時期に大村益次郎がいます。

大村益次郎(村田蔵六)(Wikipedia)

優れた西洋学者であった大村益次郎。

医師として活動した後、長州藩総帥 木戸孝允に見出されます。

木戸孝允(Wikipedia)

幕末に長州軍・討幕軍を指揮した軍人、政治家であった大村。

明治新政府では、兵部省初代大輔=防衛省次官に就任し、事実上の陸軍トップ(軍政側)となります。

官僚へ

医師として非常に有能だった後藤新平は、日清戦争での検疫業務の中心人物となります。

現代と大きく異なり、国と国の移動が遥かに少なかった当時。

異国(外国)に行った人間が、帰国した際の検疫が非常に重要でした。

コレラなどの海外由来の病原菌に罹患すると、死に至る可能性が高かったのです。

そして、検疫次第で「国内の死者数が大きく変わる」ため、極めて重要な業務でした。

日本の快勝に終わった日清戦争。

日清戦争(Wikipedia)

凱旋将兵23万人が帰国予定です。

実は、日清戦争の日本側戦死者の約90%が「伝染病に起因する」戦死でした。

考えようによっては「銃弾・砲弾より怖い」伝染病。

なんとしても、日本の水際で病原菌を止めなければなりません。

悩みに悩んでいたのは、児玉源太郎 陸軍次官でした。

児玉源太郎との名コンビ誕生へ

後に日露戦争において、日本勝利の立役者となる児玉源太郎。

児玉源太郎(Wikipedia)

極めて優れた軍人であり、政治家でもあった児玉源太郎。

当時は陸軍次官を務め、日本陸軍の兵站線などの後方業務の全権を握っていました。

児玉に後藤を推薦したのは、児玉とは付き合いの長い陸軍軍医総監・野戦衛生長官の石黒忠悳でした。

西郷隆盛と明治新政府の間で、苛烈な戦闘となった西南戦争。

西郷隆盛(Wikipedia)

内戦としては、隔絶した猛烈な戦争であった西南戦争では、多数の戦死者・負傷者が出ました。

西南戦争の負傷者を収容・治療していた大阪陸軍臨時病院で、医師として懸命に治療に当たった後藤。

その能力と姿勢は高く評価され、当時病院長であった石黒忠悳に目を付けられます。

次回は、児玉源太郎との名コンビ活躍の話です。

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