前回は「山口多聞 1 〜開成の永遠に輝く星〜」の話でした。
今回は、後藤新平をご紹介します。

医師の道へ
米国・英国などの海外列強が、大挙して押し寄せてきた幕末の1857年に生まれた後藤新平。
徳川幕府が揺れる中、仙台藩に生まれます。
医師を志した後藤は、愛知県医学校(現、名古屋大学医学部)に進み、勉強に大いに励みます。
後に政治家として、大きな功績を残した後藤新平。
後藤の活躍の根幹は「医学を懸命に学び、医師として懸命に貢献した」ことでした。
医師から政治家に転身した方は、同時期に大村益次郎がいます。

優れた西洋学者であった大村益次郎。
医師として活動した後、長州藩総帥 木戸孝允に見出されます。

幕末に長州軍・討幕軍を指揮した軍人、政治家であった大村。
明治新政府では、兵部省初代大輔=防衛省次官に就任し、事実上の陸軍トップ(軍政側)となります。
官僚へ
医師として非常に有能だった後藤新平は、日清戦争での検疫業務の中心人物となります。
現代と大きく異なり、国と国の移動が遥かに少なかった当時。
異国(外国)に行った人間が、帰国した際の検疫が非常に重要でした。
コレラなどの海外由来の病原菌に罹患すると、死に至る可能性が高かったのです。
そして、検疫次第で「国内の死者数が大きく変わる」ため、極めて重要な業務でした。
日本の快勝に終わった日清戦争。

凱旋将兵23万人が帰国予定です。
実は、日清戦争の日本側戦死者の約90%が「伝染病に起因する」戦死でした。
考えようによっては「銃弾・砲弾より怖い」伝染病。
なんとしても、日本の水際で病原菌を止めなければなりません。
悩みに悩んでいたのは、児玉源太郎 陸軍次官でした。
児玉源太郎との名コンビ誕生へ
後に日露戦争において、日本勝利の立役者となる児玉源太郎。

極めて優れた軍人であり、政治家でもあった児玉源太郎。
当時は陸軍次官を務め、日本陸軍の兵站線などの後方業務の全権を握っていました。
児玉に後藤を推薦したのは、児玉とは付き合いの長い陸軍軍医総監・野戦衛生長官の石黒忠悳でした。
西郷隆盛と明治新政府の間で、苛烈な戦闘となった西南戦争。

内戦としては、隔絶した猛烈な戦争であった西南戦争では、多数の戦死者・負傷者が出ました。
西南戦争の負傷者を収容・治療していた大阪陸軍臨時病院で、医師として懸命に治療に当たった後藤。
その能力と姿勢は高く評価され、当時病院長であった石黒忠悳に目を付けられます。
次回は、後藤新平の少年時代の話です。