前回は「山川捨松 2~女性の学ぶ道を切り拓く〜」の話でした。

江戸時代
幕末の1860年、会津に生まれた山川捨松(咲子)。
彼女の生き様は、当時生まれた会津藩に対して、よく知っておく必要があります。
250年以上の長きにわたって、比較的平穏な時代を作り上げた江戸時代。
江戸時代創成期の1615年には、豊臣家との大規模な合戦である「大坂冬の陣・夏の陣」が起こります。

徳川家にとって初代=神君であった家康没後には、島原の乱が1637年に勃発します。
その後は一揆などがあったものの、大規模な戦争・戦いは、ほとんどありませんでした。
「戦争の歴史」とさえ言える欧州などに比較すると、平和な時代でした。
世界列強と日本
しかし、1800年頃からロシア・米国・英国などが、日本に次々に接触してきます。
中でも、領土的野心を剥き出しにしてきたロシア。
対する江戸幕府は悩みます。
悩んでも、主に海軍力はロシアよりはるかに劣る日本。
幕府首脳部は必死に交渉するも、「明らかに弱い」日本は押され続けます。

1853年には米国からペリー率いる艦隊がやってきて、翌年には日米和親条約締結となります。

1858年には強硬姿勢を貫くハリスに対して、幕府は日米修好通商条約を半強制的に締結させられます。
この時、幕府は岩瀬忠震などの非常に優れた官僚が懸命に交渉を続けました。
後の世に「無能な江戸幕府」と形容されるも、当時の幕府首脳には、かなり優秀な人物が大勢いました。

のちに明治維新を主導する大久保利通。
仮に大久保が「幕府の担当者」だったとしても、似たような結果になったでしょう。
ちょうどこの頃、誕生した山川捨松(咲子)。

少し世が
平和でなくなってきたわ・・・
現代、ウクライナに戦争を仕掛けたロシア。
当時、今ほど強国ではなかった日本に対するロシアの姿勢は、大体想像できるでしょう。
そして、日本が恐怖感を感じざるをえない事態が、世界で起きていたのです。