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山川捨松 2~女性の学ぶ道を切り拓く〜

前回は「山川捨松 1~女子が学ぶこと〜」の話でした。

山川(大山)捨松(Wikipedia)
目次

日本人女性の道を切り拓く

欧米では、とうの昔に「女性が勉強するのは当たり前」だった当時。

現代の日本も「女性の社会進出」は、極めて遅れています。

物理学者・科学者Marie Curie(Wikipedia)

大抵の方が知っている、高名なキュリー夫人。

山川捨松が生まれた7年後の1867年に、ポーランドの首都ワルシャワに誕生したMarie Curie。

しかし、欧州と言えども、その先は女性に進学の道は、当時ありませんでした。

中等教育機関ギムナジウム卒業後は、進学の道が閉ざされたキュリー。

ワルシャワ移動大学等で学んだキュリーは、必死に学びを続け、ノーベル物理学賞・ノーベル化学賞ダブル受賞に至ります。

現在、女性の進学機会は欧州・米国・日本も「開けている」状況です。

しかし、日本においては、女子の旧帝国大学等への進学率・大学院等への進学率は、欧米に比較して非常に低い状況です。

「女性の社会進出後進国」日本の150年前の状況において、女性の中等教育はなく、「女性が学ぶこと」は困難でした。

強き信念

2000年頃から、日本では男性、女性共に結婚する年齢が大幅に遅くなりました。

このため、最近は「適齢期」という言葉自体があまり聞かれなくなりました。

昭和から平成へと変わった1990年代の頃までは、「適齢期」という概念はあったのでしょう。

そして、「婚期を逃す」「てて待つ()」とまで母親に言われて、改名までした山川捨松。

聡明であるだけではなく、非常に強い信念を持った女性でした。

私は、勉強して
立派になります!

東大入学時に「女子の少なさ」に驚いた山崎直子。

なんで、こんなに女子が
少ないのかしら・・・

現代社会においても、日本では「女の子は女の子らしく」という通念が強いのでしょう。

幕末の会津に生まれて

この山川の強き信念は、生まれ持ってのものかもしれません。

しかし、彼女のそれまでの歴史にも大いなる鍵があります。

米国へ渡ったのは、山川が12歳の時。

明治新政府の米国女子留学生(右端:山川捨松、右から二番目:津田梅子)(Wikipedia)

まだ、小学校6年生〜中学1年生の頃でした。

しかし、その12歳になるまでに「人生観が変わる」経験を、山川はします。

後藤 新平(Wikipedia)

我が仙台藩が、朝敵・反乱軍と
なってしまった・・・

数奇な運命となった、後藤の育った仙台藩。

それに対して、山川が生まれ育ったのは、まさに「薩長と真っ向戦った」会津藩だったのです。

さらに、山川家は会津藩の要となる、非常に重要な家柄でした。

山川家の属する会津藩は、幕末に極めて苦しい道を歩みます。

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