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山口多聞 3〜柔軟な思考力〜|威人紀行

前回は「山口多聞 2〜優れた軍人としての素質〜」の話でした。

今回は、山口の海軍軍人としての若き日々の人生を考えてゆきます。

山口多聞(Wikipedia)
目次

極めて柔軟な思考を持った山口

ちょうど「戦艦から空母へ」の大きな流れの中、人生を過ごした山口。

山口が海軍兵学校を出た1912年は、日露戦争の日本海海戦から7年です。

戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)

世界中が、まだまだ「戦艦主軸」の考え方でした。

さらに、当時目上の存在でもあったロシアに対して、日本海海戦であまりに強烈な快勝を得た日本。

他国よりも「戦艦中心主義」が、非常に根強かったのです。

その結果の一つが、巨大戦艦大和・武蔵でした。

戦艦大和(Wikipedia)

優れた頭脳をもつ山口は、柔軟な思考性を持ち、山本五十六たちと共に

これからは航空機だ!

専門を変えて、航空派となります。

元々水雷専門(雷撃等)だった山口は、世の中の流れに機敏に対応し、40前後で大きな方針転換をしたのです。

山本五十六(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

山口より海兵8期上の山本五十六にとって、同じ発想を持ち、同じ優等生肌の山口。

山口は「可愛い弟」的存在だったでしょう。

後の世から過去を見て「この時が、大きな転換点」ということは容易です。

しかし、その時期を生きている人間にとって、「発想を変える」ことは非常に大きな困難を伴います。

例えば、僕と同世代の方にとって、今や携帯電話は「身近に当然にあるもの」です。

そして、僕たちが小学生の頃は、ダイヤル式の電話機が各家庭にありました。

あの「ジーコロ、ジーコロ」と回す電話機です。

それがプッシュフォンになり、携帯電話が登場したと思ったら、瞬く間に普及しました。

僕と同世代の方が小学生〜中学生の頃に、iphoneを見せられたら「ドラえもんの世界かな?」と感じたでしょう。

また、それが当然の反応だと思います。

この非常に難しい「発想の転換」を、易々とこなしたのが山口でした。

日米戦争(太平洋戦争)の山口多聞

若き日々から、将来を嘱望された山口多聞。

順調に出世してゆき、活躍の場を広げてゆきます。

ここからは、第二次世界大戦での山口の活動を考えます。

山口が49歳の時、1941年12月。

遂に日本は、対米戦争を開始します。

真珠湾を攻撃する日本軍(歴史街道2021年12月号 PHP研究所)

ちょうど脂が乗り切った時に、大戦争を迎えた「根っからの海軍軍人」で「将来を嘱望された」山口多聞。

司令長官・司令官となって艦隊・戦隊(いくつかの戦艦・空母などからなる艦隊)を指揮するには、様々な能力が必要です。

優れた頭脳・様々な経験・大いなる柔軟性・兵卒を統率する力・強い闘争心を持つ人物でなければなりません。

そして、若い士官達を従えるためには、若すぎず、ある程度の年齢であることが望ましいです。

その全てを兼ね備えていたのが、山口多聞だったのです。

山口が直面した「大きな壁」

予期せぬことが起こらぬ限り、「海軍の中心となり、大きな活躍をするしかない」山口多聞。

それまで、個人の生活としては様々な苦難があったものの、学生時代から優秀さを貫いてきました。

海軍軍人としては「順風満帆」な人生を送り、着実に出世し、ついに日本海軍の最前線:連合艦隊の中心人物となります。

しかし、「大きな壁」が立ちはだかりました。

それは、山口が初めて経験したかもしれぬ壁であり、山口といえども突破できぬ「大きな壁」でした。

山口多聞(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

その「大きな壁」こそが、日本特有の「年功序列」だったのでした。

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