前回は「山口多聞 2〜優れた軍人としての素質〜」の話でした。
今回は、山口の海軍軍人としての若き日々の人生を考えてゆきます。

極めて柔軟な思考を持った山口
ちょうど「戦艦から空母へ」の大きな流れの中、人生を過ごした山口。
山口が海軍兵学校を出た1912年は、日露戦争の日本海海戦から7年です。

世界中が、まだまだ「戦艦主軸」の考え方でした。
さらに、当時目上の存在でもあったロシアに対して、日本海海戦であまりに強烈な快勝を得た日本。
他国よりも「戦艦中心主義」が、非常に根強かったのです。
その結果の一つが、巨大戦艦大和・武蔵でした。

優れた頭脳をもつ山口は、柔軟な思考性を持ち、山本五十六たちと共に

これからは航空機だ!
専門を変えて、航空派となります。
元々水雷専門(雷撃等)だった山口は、世の中の流れに機敏に対応し、40前後で大きな方針転換をしたのです。


山口より海兵8期上の山本五十六にとって、同じ発想を持ち、同じ優等生肌の山口。
山口は「可愛い弟」的存在だったでしょう。


後の世から過去を見て「この時が、大きな転換点」ということは容易です。
しかし、その時期を生きている人間にとって、「発想を変える」ことは非常に大きな困難を伴います。
例えば、僕と同世代の方にとって、今や携帯電話は「身近に当然にあるもの」です。
そして、僕たちが小学生の頃は、ダイヤル式の電話機が各家庭にありました。
あの「ジーコロ、ジーコロ」と回す電話機です。
それがプッシュフォンになり、携帯電話が登場したと思ったら、瞬く間に普及しました。
僕と同世代の方が小学生〜中学生の頃に、iphoneを見せられたら「ドラえもんの世界かな?」と感じたでしょう。
また、それが当然の反応だと思います。
この非常に難しい「発想の転換」を、易々とこなしたのが山口でした。
日米戦争(太平洋戦争)の山口多聞
若き日々から、将来を嘱望された山口多聞。
順調に出世してゆき、活躍の場を広げてゆきます。
ここからは、第二次世界大戦での山口の活動を考えます。
山口が49歳の時、1941年12月。
遂に日本は、対米戦争を開始します。


ちょうど脂が乗り切った時に、大戦争を迎えた「根っからの海軍軍人」で「将来を嘱望された」山口多聞。


司令長官・司令官となって艦隊・戦隊(いくつかの戦艦・空母などからなる艦隊)を指揮するには、様々な能力が必要です。
優れた頭脳・様々な経験・大いなる柔軟性・兵卒を統率する力・強い闘争心を持つ人物でなければなりません。
そして、若い士官達を従えるためには、若すぎず、ある程度の年齢であることが望ましいです。
その全てを兼ね備えていたのが、山口多聞だったのです。
山口が直面した「大きな壁」
予期せぬことが起こらぬ限り、「海軍の中心となり、大きな活躍をするしかない」山口多聞。
それまで、個人の生活としては様々な苦難があったものの、学生時代から優秀さを貫いてきました。
海軍軍人としては「順風満帆」な人生を送り、着実に出世し、ついに日本海軍の最前線:連合艦隊の中心人物となります。
しかし、「大きな壁」が立ちはだかりました。
それは、山口が初めて経験したかもしれぬ壁であり、山口といえども突破できぬ「大きな壁」でした。


その「大きな壁」こそが、日本特有の「年功序列」だったのでした。