山口多聞に立ちはだかった高い壁〜ハンモックナンバーと海兵卒業席次・海軍兵学校から海軍士官へ・軍令承行令という年功序列・戦時の硬直システム・対米戦と海軍人事〜|山口多聞4・人物像・能力

前回は「極めて柔軟な思考を持った山口多聞〜日本海海戦と大艦巨砲主義・日米戦争太平洋戦争の山口多聞・司令官へ・山口が直面した「大きな壁」〜」の話でした。

山口多聞(Wikipedia)
目次

ハンモックナンバーと海兵卒業席次:海軍兵学校から海軍士官へ

海軍兵学校生徒館(現 海上自衛隊幹部候補生学校)(Wikipedia)

日本海軍の人事制度と、山口の歩みを考えます。

当時、海軍士官になるためには、海軍兵学校に入学する必要がありました。

海軍兵学校卒業後は「幹部候補」として、海軍少尉候補生となり、すぐに海軍少尉となります。

いわば、海軍兵学校さえ出れば出世が約束されているシステムです。

ある意味、「いきすぎたエリートシステム」とも言えます。

エリートコースの海軍兵学校ですが、卒業年・卒業時の席次が極めて重要でした。

「軍令承行令」によって、海軍士官の先任順序が定められ、卒業期・席次で序列化されます。

卒業年は如何ともし難いのですが、卒業席次は、

頑張れば、
なんとかなる!

少しでも
卒業順位を上げるんだ!

と、皆が切磋琢磨したのでした。

そして、この卒業席次が一生ついて回ります。

まずは、卒業期が上の方が「先任」となり「先輩の方が偉い」となります。

さらに、海兵(海軍兵学校)卒業生は、卒業席次が一生ついてまわります。

卒業席次は「ハンモックナンバー」と呼ばれ、「卒業席次が上」=「先任(立場が上)」となります。

例えば、「卒業席次15位のA君」と「次年度卒業席次5位のB君」がいたとします。

この場合、「B君の方が先任」となり「先任のB君」が先に出世してゆきます。

軍令承行令という年功序列:戦時の硬直システム

新教育紀行
戦艦大和(Wikipedia)

この年功序列の「硬直システムこそが、山口に立ちはだかった「とても高い壁」でした。

これは、現代の目から見れば、異常なことです。

「学校での成績で一生が決まる」ということを明文化し、法律のようになって運用されていた旧日本海軍。

大変な硬直状態でした。

平時ならば、これでも良いかもしれません。

皆で訓練して、仲良く過ごしていれば良いからです。

一方で、戦時では、これは非常に良くない制度となります。

米国などの欧米諸国とは「対照的」とも言える、非常に硬直したシステム。

そして、山口は海兵を次席(2位)で卒業しています。

よしっ、
頑張ったぞ!

そのため、海兵40期卒業の山口は「同期生では、ほぼ先任(1位を除いて)」となります。

39期以前の卒業生に対しては、大抵「後任」となります。

絶対に先輩を
超えてはならぬ!

という社会で、山口は懸命に海軍士官として務めます。

山口多聞に立ちはだかった高い壁:対米戦と海軍人事

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

1941年の対米戦前に、日本はすでに中国などと熾烈な戦争を続けていました。

そして、いよいよ世界最強国家・米国を敵にし、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まりました。

山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾奇襲攻撃を強行しました。

この時、空母中心の奇襲攻撃部隊の総責任者:第一航空艦隊司令長官の人事で揉めます。

及川古志郎 海軍大臣(Wikipedia)

人事任命権は、及川古志郎海軍大臣が持っています。

南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

軍令承行令の先任順序によると、司令長官は山口の先輩:南雲忠一になります。

実は南雲の専門は水雷線(駆逐艦など)であり、「航空戦は門外漢」でした。

海軍兵学校卒業期名前専門役職
32山本 五十六航空連合艦隊司令長官
36南雲 忠一水雷第一航空艦隊司令長官
37小沢 治三郎航空南遣艦隊司令長官
40山口 多聞航空第二航空戦隊司令官
41草鹿 龍之介航空第一航空艦隊参謀長
連合艦隊幹部の専門・役職・海軍兵学校卒業期(1941年12月)

南雲は海兵36期卒(卒業席次5位)で、山口の4期上になります。

航空戦は、
よく知らない・・・

最高指揮官は、航空戦をよく分かっている
小沢治三郎(37期)か山口多聞(40期)が良い!

制度は大事!
制度通り「年功序列」だ!

そこを
なんとか考え直して欲しい・・・

最強国である米国相手に戦って勝つのは、
極めて困難。

「年功序列」制度を、
変えて欲しい。

ダメだ!
「海軍承行令(年功序列)」により、司令長官は南雲。

制度の変更が難しいなら、
ここは特例でも、考慮して頂きたい!

ダメだ!
司令長官は南雲だ!

・・・・・

・・・・・

山口の3期上の小沢も名声が高かったのですが、山口は対米戦前から航空戦を直に指揮していました。

航空戦の論理だけではなく、実戦も経験していた数少ない将官の一人だった山口。

山本五十六連合艦隊司令長官含め、海軍中堅幹部の多くが望む「山口第一航空艦隊司令長官」。

それは、「日本特有の壁」によって、成立が阻まれます。

4年上の先輩を
超えては、ダメ!

仕方ない。
持てる立場でベスト尽くすぞ!

山口多聞は、次席指揮官に相当する第二航空戦隊司令官(飛龍・蒼龍)となります。

当時、第一航空艦隊は3つの戦隊:第一・第二・第五航空戦隊司令官から成立していました。

空母二隻を任せられた。
一生懸命頑張るぞ!

何事においても、非常に重要な人事。

方針である作戦・戦略は根幹ですが、なんでも成し遂げるのは「人」です。

「年功序列人事という壁」に阻まれた山口。

それでも「40期2位」という成績優秀さから同期の城島が艦長に対して、ワンランク上の司令官になったのです。

戦うからには、
勝つのだ!

燃える山口司令官でした。

新教育紀行

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