西郷隆盛の大いなる飛躍〜広い日本を肌で知る体験・島津斉彬の特異な先進性・他の藩主とは全くズレていた強き意志・橋本左内との出会い・藩主と藩士の立場〜|西郷隆盛15・人物像

前回は「視野と人物が急速に大きくなった西郷〜様々な人物との邂逅・斉彬の構想・幕末の薩摩と徳川幕府・急速に広がる西郷の世界・薩摩の外へ〜」の話でした。

西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

島津斉彬の特異な先進性:他の藩主とは全くズレていた強き意志

島津第十一代藩主 島津斉彬(Wikipedia)

新藩主となった島津斉彬に信頼される立場となった西郷隆盛。

西郷は
信頼できる!

当時の藩主は、基本的には「絶対君主」に近い存在です。

藩の内部に対しては、絶対的な権限がありました。

そのために、「お由羅騒動」では、多数の藩士が切腹を命じられたり、島流しとなります。

藩主の考え一つで、藩内の人間の人生が大きく変わる可能性があります。

考えようによっては、内閣総理大臣・大臣をはるかに上回る権限を当時の藩主は持っていたのです。

ところが、開明的・先進的であった島津斉彬は全然違いました。

西郷よ。
ここはどう思う?

そうで
ごわすな・・・

このように
考えては如何ごわすか。

うむ。
面白いのう。

西郷の能力を高く評価し、様々意見を聞きます。

当時、こういう藩主は非常に少なく、

俺の
言うことを聞け!

的な人物ばかりでした。

あるいは、周囲の年配の家老たちが全てを取り仕切っており、

ここは、
このようになされたら良いでしょう・・・

うむ・・・
良いようにせよ・・・

会社で言えば、重役たちに全てを任せて「事実上何もしていない」藩主も大勢いました。

そうした社会が「当たり前」の時代において、島津斉彬の発想自体がズレていて、先進的でした。

周りの家老どもでは、
何も分かってない・・・

そもそも江戸時代の藩の運営は「何か新しいことを考える」風土ではありませんでした。

いかに上手くしきたりに
従って、藩を運営するか・・・

「しきたり」に従うことこそが「最上」であり、そもそも「新たな発想」という考えすらなかったのです。

その中、

とにかく、我が薩摩が
変わってゆくには、優れた人物が必要!

と考えた島津斉彬。

これは、島津斉彬自身が長年阻害され、非常に苦労したことも大きく影響しているでしょう。

第十代薩摩藩主 島津斉興(Wikipedia)

斉彬には
藩主の座を譲らない!

そして、長年父・斉興に妨害され続けた間に、様々なことを考えた結果だったとも言えます。

この点において、斉彬が「異常に遅く藩主に就任した」ことはデメリットばかりではなかったでしょう。

西郷隆盛の大いなる飛躍:広い日本を肌で知る体験

越前藩主 松平慶永(春嶽)(国立国会図書館)

夷狄(外国)が、どんどん
日本に来ている・・・

なんとか強い体制を
作らねば!

では、
西郷よ。

ちょっと、松平殿のところへ
行ってきてくれ。

分かりました。

おお、西郷。
元気か・・・

お久しぶりごわす!

「薩摩国内のこと」のみを考えればよかった当時の薩摩藩士たち。

そもそも、「薩摩以外のことを考えることが求められない」環境だったのです。

その中、日本を駆け巡り様々な土地を見て人に触れてゆき、西郷の視野は急速に広がります。

日本は、こんな広か
ごわすか!

この頃、水戸で敬愛していた藤田東湖に会い、

水戸藩士
藤田東湖と申します。

藤田さんは、
素晴らしき人か!

感激する西郷でした。

橋本左内との出会い:藩主と藩士の立場

越前藩士 橋本左内(Wikipedia)

ああ、
西郷よ。

詳しくは、
橋本左内と相談してくれ。

越前藩主 松平慶永(春嶽)の隣に、色白の若い青年が立っていました。

初めまして。

越前藩士
橋本左内です。

薩摩藩士
西郷吉之助ごわす。

緒方洪庵が設立した適塾を、非常に優れた成績で卒業した橋本左内。

橋本左内は、越前藩主・松平慶永(春嶽)の「懐刀」として大変重用されていました。

現代日本において、

東京の
山田です。

あるいは、

広島の
佐藤です。

と自己紹介することは少ないでしょう。

出身地や地元の話になったら、

実は、
私は広島出身で・・・

と話になることはあります。

世間話で出る以外は、ある程度親しくならないと相手の出身地は分からないことが多いです。

「藩が国だった」当時の日本。

現代で言うと 「〜藩士(所属)=〜国籍」に相当します。

私は・・・と
考えます。

おいどんは
〜と考えます。

斉彬が切り開いた新しい世界が、西郷を飛躍させてゆきます。

これなくして、後の西郷はありませんでした。

新教育紀行

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