視野と人物が急速に大きくなった西郷〜様々な人物との邂逅・斉彬の構想・幕末の薩摩と徳川幕府・急速に広がる西郷の世界・薩摩の外へ〜|西郷隆盛14・人物像

前回は「島津斉彬との出会い〜開く西郷の「運命の扉」・島津斉彬の開かれぬ「藩主への道」・父斉興の妨害・老中阿部正弘の介入・斉興への無言の強力な圧力〜」の話でした。

西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

斉彬の構想:幕末の薩摩と徳川幕府

島津第十一代藩主 島津斉彬(Wikipedia)

西郷に目をつけ、親しく話をするようになった島津斉彬。

普通は藩主に近づいて話すことなどできない時代です。

各藩において藩主は王様であり、「なんでも命令できる」立場です。

藩主が、

そのほうに、
切腹を申し付ける!

と命令を出した場合、「切腹しなければならない」のが当時の世界でした。

現代では、考えられない異常に不条理な世界だったのでした。

各藩とも、当時の藩士が藩主に「会う=御目通りする」機会は、ほとんどなかったのです。

その中、西郷は積極的に斉彬と接します。

西郷、
ちょっと来い!

はっ!

氏名生年
島津斉彬1809年
西郷隆盛1828年
大久保利通1830年
薩摩の人物の生年

西郷隆盛よりも19年年上の島津斉彬。

西郷は1月生まれなので、現代の感覚では「学年で斉彬は西郷の18上」となります。

いずれにしても、非常に大きな差でありました。

斉彬様に
ついてゆくごわす!

若き西郷は、20近く年上で藩主という「雲の上の人」である島津斉彬についてゆくことを決めました。

それまでは「大人物の片鱗」はあったものの、活躍の場が限られていた西郷。

優れた人物であった島津斉彬だからこそ、優れた西郷を見出したのでした。

西郷は
優れている・・・

さらに西郷は
信頼できる・・・

なんでも、おいどん(私)に
お任せを!

こういう人物は
稀有なのだ!

米提督 マシュー・ペリー(Wikipedia)

幕末、諸外国から様々な使節団が来ました。

米国のペリー提督が有名ですが、英国・ロシアなども盛んに接触を持ってきたのでした。

日本の兄貴分的存在だった清国(中国)は、英国(大英帝国)と戦争して大敗北しました。

あの清国が、
エゲレスに大敗したのだ!

なんとか
しなければ!

まずは、薩摩単独で、
富国強兵!

そして、気の合う
諸侯と連携だ!

急速に広がる西郷の世界:薩摩の外へ

幕末維新時の藩(「最後の藩主」監修 八幡和郎 光文社)

当時、300ほどの藩が存在し、薩摩藩は加賀102万石に次ぐ堂々の77万石です。

我が薩摩の力は
強力だ・・・

諸侯の中で
ずば抜けた存在ではある・・・

だが、外国と争うには
薩摩の力だけでは、限界がある・・・

島津斉彬は、老中・阿部正弘、越前・松平慶永(春嶽)らに使者を出します。

西郷よ。
使者に向かえ!

ははっ!

藩主・斉彬の側にいて、薩摩藩の将来を考えるようになった西郷。

斉彬の使者として、様々なところへ出かけることで、西郷の世界が非常に広がります。

それまで、薩摩から出たことがなかった西郷。

江戸に行って、
老中・阿部正弘殿に、この手紙を届けよ!

ははっ!

次は、
水戸の徳川家だ。

ははっ!

電子メールもなければ、電話もない当時。

手紙が、意思疎通の手段でした。

当時「飛脚」の方々によって手紙が運ばれており、郵便事業は、ある程度確立していました。

それでも「ただ郵便で出す」のと「使者を派遣する」では大きく違います。

そもそも、手紙は「誰かに盗まれる可能性」があります。

徳川幕府は全国に隠密(密偵)を送り込み、諸大名の動きを強く監視していました。

手紙に書けないことも
ある・・・

それをお前が
口頭で伝え、返事を口頭でもらってこい!

ははっ!

「手紙に書けないこと」は使者が直接話をして、回答を聞いてくる必要があります。

視野と人物が急速に大きくなった西郷:様々な人物との邂逅

老中 阿部正弘(WIkipedia)

手紙は人が運ぶか、精々馬に乗って運ぶので、時間がかかります。

さらに、「大事な手紙」は「大事な人物に任せる」必要があります。

斉彬様の使いの
西郷でごわす!

おお・・・
よく来たな。

本来、薩摩藩の下級武士である西郷は、そもそも老中・阿部正弘と会うことなど出来ません。

当時の感覚では、「老中と会う」のは大名に限られていたのでした。

この方が、
阿部様か・・・

いくら大大名の島津家当主・斉彬と言っても、身分上は旗本と同列です。

つまり、島津藩主・斉彬は、立場上は老中・阿部正弘の部下なのです。

薩摩藩士の西郷は老中の部下(藩主・旗本)の部下なので、「陪臣(ばいしん)」という低い身分です。

とても会えない「雲の上の上の人」であった老中・阿部正弘。

現代の感覚では中学生・高校生が、米国大統領と会うほどの気持ちでしょう。

おいどんが思いもしない
方々と次々に会うことになるごわすとは・・・

この「自分の周囲の世界の変化」には、西郷自身が最も驚いていたことでしょう。

西郷を信頼する斉彬は、次々と西郷に指令を下します。

次は、
越前・松平殿だ。

越前藩主 松平慶永(春嶽)(国立国会図書館)

薩摩の
西郷でごわす!

おお・・・
その方が西郷か・・・

斉彬殿から
聞いておるぞ。

越前・松平藩は会津・松平藩と同様、徳川家の親藩大名です。

この方が
松平様・・・

徳川幕府初代将軍 徳川家康(Wikipedia)

徳川幕府初代将軍で「神君」であった徳川家康の「元の名前」である松平の姓。

この「松平」の姓は「徳川に次ぐ」ことが意味されている特別な存在でした。

こうして様々な大名と接するうちに、各家の重要な人物たちと知り合います。

水戸藩に出かけた時は、藤田東湖に会って、非常に大きな影響を受けます。

私が水戸藩士
藤田東湖です。

薩摩藩の
西郷吉之助ごわす!

こうして、各藩の藩主・名士たちと次々に会っていった西郷。

これが出来たのは、全ては「斉彬の推薦」があったからでした。

つまり、島津藩主で名君の名高い島津斉彬が保証人となって西郷を強く押したのでした。

世界は
広い!

薩摩以外の様々な国(藩)、そして人々を知り、西郷の世界は急速に広がります。

新教育紀行

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