郷中教育が重視した「十分議論して実行」〜ディスカッションの大きなメリット・明治維新期の世界と日本・日本の識字率・欧米から知識を学ぶ姿勢へ・薩英戦争と下関戦争の戦争体験〜|西郷隆盛 6・幕末と明治の教育

前回は「郷中教育から現代教育へ〜欧米列強への対抗と欧米化・幕末の日本の立ち位置と大転換・郷中教育「義を言うな」の優れた後進たち・大山巌・東郷平八郎・黒木為楨〜」の話でした。

西郷 隆盛(国立国会図書館)
目次

郷中教育が重視した「十分議論して実行」:ディスカッションの大きなメリット

東郷 平八郎 連合艦隊司令長官(日露戦争)(国立国会図書館)

現代、欧米の教育で盛んに行われている「ディスカッション」。

日本の教育でも
取り入れるべきだ!

という声が20年ほど前からありますが、進みません。

実は、200年前の郷中教育や諸藩の藩校・私塾では「ディスカッションが盛んに行われていた」のです。

知識は、欧米に大きく遅れていた面はあります。

小さな頃から「議論する姿勢」により、思考力を身につけてきた方々。

樺山資紀 海軍大臣(国立国会図書館)

欧米よりも知識は劣っていたのは事実ですが、自ら考えて知識を知恵に飛翔させた方々。

実際、日本海海戦の際の連合艦隊司令長官である東郷平八郎は英国(大英帝国)に留学して学びました。

大英帝国での学びが
なければ、今の私はない・・・

海軍では当時最先端であった英国に対して、海軍の基本的骨格が貧弱だった日本。

若き東郷平八郎が英国で学んだのは、

英国で学ばなければ、
何も始まらない・・・

が現実でした。

そして、英国で学んだことを知識として身につけて帰国します。

そして、幼き頃からの郷中教育で身につけた思考力によって、知識を知恵に飛躍させたのでしょう。

こうした「知識を知恵に飛躍させた」方々が、幕末・維新を引っ張ってゆきます。

明治維新期の世界と日本:日本の識字率

大久保利通(国立国会図書館)

日本は一般庶民の識字率(読み書きできる方の割合)は、欧州よりも遥かに高レベルだった説があります。

「識字率」という「日常生活で読み書きできる」基準レベルが高かったのです。

これに関しては諸説あり、「統一された識字率の統計がない」のでなんとも言えません。

一方で、当時の日本の寺子屋などによる教育による「感覚」ではかなり高いレベルでした。

それは、当時の日本においては、誇るべき事実でした。

明治期、お隣の中国は「清」という国でしたが、事実上「欧米の植民地」のような状況でした。

世界中が帝国主義で、「勝てば官軍」でした。

その中、

欧米文化を
吸収しなければ・・・

我が日本も
植民地にされてしまう・・・

という懸念が、大きく広がっていました。

「懸念」というよりも「恐怖」が、特に政府首脳にありました。

木戸孝允(国立国会図書館)

実際に、幕末に米国やヨーロッパと次々と条約を結びました。

実態は、恫喝されて、強引に結ばされた」のが実態です。

Townsend Harris駐日米国公使(Wikipedia)

早く
調印しろ!

はい・・・
分かりました・・・

大久保たちにとっては、この「押し付けられた平等条約の改正」こそは最優先事項でした。

欧米から知識を学ぶ姿勢へ:薩英戦争と下関戦争の戦争体験

下関戦争(Wikipedia)

長州出身の木戸、薩摩出身の大久保らの脳裏には、あるイメージがありました。

長州・薩摩は「自分達が実際に欧米と戦い、痛い目にあった」事件・戦争があります。

長州・薩摩が、他の藩と大きく異なること。

それは、「実際に英国や連合軍と本気で戦った経験がある」ことでした。

薩英戦争 歴史道vol.6(朝日新聞出版)

長州は、

攘夷だ!

と盛り上がって、外国船を砲撃したら四カ国連合軍に攻め込まれました。

我が長州藩と
戦争か!

「善戦」したものの、長州は壊滅的被害を受けて大敗北しました。

薩摩も薩英戦争を戦い、長州よりもさらに善戦した薩摩。

我が薩摩藩の
示現流、見せてやろう!

当時世界最強の大英帝国の東洋艦隊相手に、「戦死者は大英帝国の方が多い」異常な善戦をしました。

だが、鹿児島の中心部を焼き尽くされた薩摩。

剣では勝てるが、
あの大砲や軍艦が相手では・・・

当時、日本最強の薩摩といえども「苦汁を呑んだ」のでした。

そして、

海外を、
実際に見なければ!

海外から
積極的に学ばねば!

と考え、日本国内の全てが「欧米化へ」という方向に大きく舵を切るのです。

全てを
「欧米化」へ!

藩校では「最先端知識」を学ぶ場がありましたが、欧米のような体系的な学びではありませんでした。

寺子屋(Wikipedia)

郷中教育や寺子屋では「読み・書き・算盤」の基本事項を学びましたが、学問ではありませんでした。

特に「精神修養」に重きを置いた郷中教育では、「知識に重きを置いてなかった」のです。

知識がなければ
始まらん!

明治となり、教育方針が大きく変化しようとしていました。

新教育紀行

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