前回は「当時の状況を理解しながら歴史を学ぶ姿勢〜「年号から」ではなく流れを重視・幕臣と大名に君臨した徳川将軍・「臣下」と「家臣」〜」の話でした。
「さつま」の独特の漢字と音:薩摩志士の「お兄さん」有馬と大山
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問12に進んで、「大久保利通の出身藩と藩主(領主)」が問われています。

これは薩摩で
島津氏だね!
この問は、歴史をしっかり理解している人には易しい問題です。
ここで、「薩摩」という漢字は難しいので、



大久保利通のの出身藩を
漢字で答えなさい。
このような出題はなさそうですが、ぜひ一度は「薩摩」と漢字で書いてみましょう。



「薩摩」の「薩」の字が
難しい・・・


旧国名の中で、かなり難しい漢字である「薩摩」は、「さつま」という読み方・音も独特です。



「さつま」という
音は強そうな感じがするね。
今回は、幕末における薩摩藩士たちの生き様を復習しましょう。
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上の薩摩藩出身の藩士たちは、生年順に並んでいます。



知らない名前が
結構あるけど・・・


「西郷と大久保がトップ」と見られる傾向が強い、幕末の「薩摩志士軍団」。
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実は、西郷と大久保の上には、有馬新七と大山綱良という「お兄さん」が二人いました。
有馬と大山は共に剣術の達人であり、強烈な個性を持っていました。



おい、西郷!
ここは、こうするのが良か!



はい・・・
有馬さぁのいう通りごわす・・・
「示現流」という独特の剣術があり、「強いこと」が異常に尊ばれた薩摩藩の藩風。
この薩摩において、「剣術の達人」であった有馬と大山の影響力は甚大でした。



おい、一蔵(大久保)!
もっとしっかりしろ!



はい・・・
対して、西郷も大久保も「剣術とは大して縁がない」存在であり、



有馬さぁには
逆らえんごわすな・・・
有馬は、ある意味で「薩摩志士軍団のボス」でありました。
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1862年、「薩摩志士軍団のボス」だった有馬新七は、京都で同じく「ボス格」の大山と対面しました。



新七どん・・・
我らの仲ではないか・・・



ここは、久光様の
話を聞いて欲しい・・・



久光様の言うことは
聞けない・・・



ならば、こちらは
「出るとこ出る」が・・・
大山の瞳がキラリと光りました。



「聞かぬなら有馬を斬れ」と、
久光様から命令された、か・・・



新七どん、我らの仲ごわすが、
君命を帯びているごわす・・・
同い年で、共に「薩摩志士軍のボス」だった有馬と大山。



おいどんには、
おいどんの生き方がある!



どうしても、
久光様に従えんか?
幼馴染の二人は、郷中教育で幼い頃から知っていた仲でした。



・・・・・



・・・・・・
しかし、ここで二人は決裂してしまいました。



やむを得ん!
全員斬る!



おうよ!
この有馬を斬れるか!!



むおお〜!!
我らは鎮撫使なのだ!
有馬も大山も共に剣術の達人で、大勢の剣士たちが「凄惨な戦い」を演じました。



お、おいごと
刺せぇ〜!!!
大山ら鎮撫使の藩士と斬り合い、「まとめて刺されること」を強硬に要請した「超達人」有馬新七。



ぐ、
ぐふっ!!
そして、「薩摩志士軍団のボス」だった有馬新七は、闘死しました。



・・・・・
「君命により仲間同士が殺し合う」と言う、悲惨極まりない事件が、この寺田屋騒動でした。
明治維新の本質を理解する学び:薩長肥の中核グループ


明治維新成立から10年後の、1877年に、驚天動地の事件が勃発しました。



明治新政府に
尋問したいことがあるごわす!



吉之助さぁに
どこまでもついて行く!



西郷先生に従って、
我が薩摩軍団が戦おうぞ!



西郷先生の命令ならば、
どこへでも戦いに行きます!
西郷隆盛を中核として、村田新八、篠原国幹、桐野利秋らが西南戦争を引き起こしました。
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この時は、「かつての仲間」であった大久保利通は、新政府側であり「薩摩の敵」でした。
明治維新までは、「薩摩人」だった大久保利通は、当時「事実上の総理大臣」の内務卿でした。



やむを得ん・・・
薩摩の反乱軍を鎮圧せよ!
明治維新の原動力であり、白兵戦では当時「日本最強」を超えて「世界最強」だった薩摩軍団。
まさに「明治維新を起こした力」が「明治新政府を倒す力」になろうとしていました。
この点は「明治維新の本質」であり、明治維新〜西南戦争の大事なポイントです。
西南戦争は、他の「不平士族の乱」とは別格の大戦争となり、多数の死傷者が出ました。
西郷軍 | 政府軍 | |
兵力(人) | 約30,000名 | 約90,000名 |
戦死者(人) | 約6,800名 | 約6,400名 |



もう、
ここらで良か・・・
薩摩軍・新政府軍合計で14,000名近い死者を出した「未曾有の大内乱・大戦争」でした。
西南戦争によって、「薩摩の志士」たちは、この世から一気に消えてしまいました。
西南戦争の翌1878年には、



お、おのれ!
無礼者が!!
大久保利通が暗殺されました。
大久保の暗殺の理由は様々ですが、西南戦争は大きな理由の一つでした。
この意味では、大久保も「西南戦争が理由で亡くなった」とも言えると考えます。
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ここからは、少しハイレベルな知識ですが、余談です。
「薩摩志士軍団」は、精忠組(せいちゅうぐみ)というグループを形成していました。
西郷に私淑していた篠原、桐野らも精忠組の一員と考えられます。
維新時の年齢から考えて、「村田新八までが精忠組」と考えられます。


長州で「松下村塾グループ」があったように、薩摩では「精忠組グループ」が維新を牽引しました。
・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文など
・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など
・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など
他に肥前では「義祭同盟(ぎさいどうめい)」がありますが、これは中学受験の範囲を超えます。



肥前にも
グループがあったんだね・・・
「薩長肥には中核グループがあった」と理解しておくと良いでしょう。
討幕を主導した薩長土肥のうち、「薩長肥には、お友達グループがあった」のです。
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そして、有馬亡き後、西郷隆盛が薩摩志士軍団のボスとなりました。
まるで、「長州における吉田松陰」のような存在になり、西郷が「薩摩のシンボル」になったのでした。


(2)は岩倉使節団に「参加していない人物」であり、西郷隆盛です。



おいどんが、
留守政府のボスごわす!
事実上、「留守政府の首相」であった西郷隆盛は、様々な改革を断行しました。
岩倉使節団に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
こういう「参加したのは誰?」という問題では、「著名人が参加者ではなかった」ことが多いです。
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こういう問題に出会った時、



誰が参加して、誰が
参加しなかったか、は知らない・・・
「知らない」時は、「著名人の当時の状況」を考えてみると良いでしょう。



西郷隆盛は、四民平等や
学制交付したし・・・



西郷隆盛は、海外に行く
雰囲気じゃないから、西郷隆盛かな?
このような感じで、自分なりに類推して考えると良いでしょう。
このような知識問題を「知らなくても解く、解ける」姿勢が大事です。
問1 (1)源義家 (2)和歌山 (3)高知 (4)川崎
(5)徳川吉宗 (6)参勤交代 (7)日露戦争 (8)徳川慶喜
問2 (1)源氏物語 (2)藤原道長
問3 (1)兵庫県 (2)北条政子
問4 (1)足利義満 (2)明
問5 水戸藩
問6 (1)三内丸山 (2)大森
問7 (1)福岡県 (2)佐賀県
問8 イ
問9 (1) 歌川広重 (2)ゴッホ
問10 (1)松下村塾 (2)出来事:萩の乱 中心人物:前原一誠
(3)多数の松下村塾の塾生たちが、萩の乱に参加したから
問11 (1)明治天皇 (2) ア
問12 (1)エ (2)エ
問13(1)下関条約 (2)イ
問14 ウ
問15 (1)ジュネーブ (2)ウ
問16 (1)南満洲鉄道 (2)大日本帝国 (3)松岡洋右
次回は上記リンクです。