前回は「歴史の地名を流れでイメージして理解〜北条政子の歴史変えた「一喝」・問題を解きながら深い知識獲得・義満の太政大臣就任と勘合貿易〜」の話でした。
キーワードから類推する姿勢:独特の「水戸学」生み出した水戸藩
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前回に続いて問5に進みます。

文京区の小石川後楽園を
作った徳川光圀は何藩ですか?


東京のど真ん中にある広大な庭園である小石川後楽園。
桜の時期には、特に大勢の方で賑わいます。
「徳川光圀」は名前の漢字が難しく、知識としてはハイレベルです。



徳川光圀って、
知らないけど・・・
徳川光圀を知らない人も多いと思いますが、こういう時は少しでも「ヒント」を考えましょう。
まずは「小石川後楽園を作った」のは江戸時代です。
江戸時代に「徳川」を名乗れる立場だったのは、極めて少数派です。



ということは、
御三家の人かな?
「徳川」という名前から御三家であることを想像すると、答えは「尾張、紀伊、水戸」のどれか、です。
ここからは、「小石川後楽園のような風情ある庭園を作った」雰囲気を考えると良いでしょう。
高い石高を持ち、「別格」の藩であった御三家の各藩は、それぞれが「藩の格式」を重んじました。
御三家の中で、最も学問が盛んであった水戸が答えです。





水戸藩主
徳川光圀である!



私は、水戸黄門とも
呼ばれたのだ!
水戸黄門とも呼ばれた徳川光圀は、徳川家康の孫にあたります。
水戸黄門の「水戸」は「水戸藩」から、「黄門」は官職の権中納言(ごんちゅうなごん)の唐名です。
非常に学問を重んじた光圀は、



我が日本の歴史を
きちんと整理するのだ!



「大日本史」
を編纂するのだ!
「大日本史」編纂を行い、水戸学の創始者となりました。
儒学や国学を中心とする独特の水戸学は、藩の名前が「学問の名称」になる特殊な学問でした。
「徳川親衛隊」御三家と御三卿:水戸と一橋出身の徳川慶喜
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ここで「御三家」の復習をしましょう。
徳川幕府の「親衛隊」であった御三家は、家康が豊臣家を滅亡させた直後に成立しました。
御三家の家系 | 成立年 |
尾張 | 1616年 |
紀伊 | 1619年 |
水戸 | 1619年 |
最初に出来たのが「御三家筆頭」だった徳川尾張藩で、成立は家康が亡くなった1616年です。





秀吉も一代の傑物で
あったが・・・



なんと言っても、子どもが
生まれるのが遅すぎた・・・



そして、秀吉の一族が
貧弱すぎた・・・



それが、豊臣家の
最大の弱点であった・・・
一時は「秀吉の目上の立場」でありながら、秀吉に屈服せざるを得なかった家康。
秀吉の命令で「関東に移らされた」家康の話を、上記リンクでご紹介しています。



我が徳川は一族で
固めるのだ!



いわば、強力な
徳川親衛隊を創設するのだ!
豊臣家を滅亡させた徳川幕府の力は、当時圧倒的でした。
今川家・武田家・織田家・豊臣家などの、多数の大名の栄枯盛衰を目の当たりにした家康。



確かに我が徳川の力は
今は圧倒的だ・・・



だが、いつかはその力は
衰えてゆく・・・
「力あるものは、必ずいつかは衰える」歴史の法則を身をもって知っていた家康。



だが、徳川は
消えぬのだ・・・



強力な徳川親衛隊によって、
完璧な防御網を構築する!
御三家の紀伊・水戸が出来たのは、家康死後ですが、明らかに「家康の意図」がありました。
御三家に対しては、「徳川親衛隊」の任務とともに、重大な任務がありました。



将軍家は、ワシの直系の子孫たちが
就任するのだ・・・



だが、秀吉に子どもがなかなか
出来なかったような事態もありうる・・・
1543年に生まれ、1559年に長男が生まれた家康。
現代の感覚ならば、「高校生の時に長男が生まれた」ことになります。
戦国時代の頃は、結婚が早く「20歳前に子どもを持つ」ことが多かった時代です。
ところが、秀吉には子どもがなかなか生まれず、後継者秀頼が生まれたのは秀吉が57歳頃でした。
さらに、出自が定かでなかった秀吉には、一族が少なかったことも致命的でした。



将軍家直系に子どもが
生まれなかった時は・・・



御三家から将軍を
出すのだ・・・
「将軍家直系」以外に「三つの家系」をキープして、「将軍家の存続」を図った家康。
御三家は石高が、62万石、56万石、35万石(時代によって多少変化あり)です。
当時、大名の石高が、加賀100万石、薩摩77万石、仙台62万石などでした。
大名の石高と比較すると、御三家の石高の多さが分かります。
御三家の石高を単純合算すると、62+56+35=153万石となり、かなり強力でした。
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そして、家康の思惑通り、将軍家から後継者が出なかったときは、御三家から将軍家を出しました。





大権現(家康)様の
お考え通り、私が将軍に!
ここで、初めて「御三家出身の将軍」となったのが、第八代の吉宗でした。
本来ならば、「御三家筆頭の尾張」から出るのが「筋」でしたが、なぜか紀伊から出ました。
この辺りは、いろいろな駆け引きがあったと思われます。



御三家の紀伊から
私が出たから良いが・・・



御三家だけでは、将軍家を
どこまで出せるか・・・
御三家によって「将軍家保全」のミッションを果たした吉宗は、



よしっ、御三家に次ぐ
準御三家を作ろう!
「準御三家」を作ることにしました。
ただ「準御三家」では「劣る感じ」が出るので、「御三卿」として、新たに三つの家を作った吉宗。
御三家:紀伊・尾張・水戸
御三卿:田安・一橋・清水
御三家+御三卿の六つの家によって、徳川将軍家の後継者は万全の体制となりました。
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そして、御三家からは将軍家を多数輩出し、トップは紀伊となりました。
紀伊には、「紀伊傍系」とも言える一橋家も含んでいます。
「御三家筆頭」の尾張からは、結局「将軍ゼロ」となりました。
水戸光圀の水戸藩からは、唯一人将軍が登場しました。





私は水戸出身で、一橋家の
一橋慶喜である!
一橋家に移った最後の将軍慶喜は、「水戸と紀伊」から輩出となりました。
御三家の水戸徳川家から、わざわざ「格下」の御三卿の一橋家に移った慶喜。
一橋家は「格下」でしたが、実は「将軍輩出の名門」でした。
そして、現代、中学受験で「男子御三家」「女子御三家」と呼ばれる御三家の由来は、徳川御三家です。
問1 (1)源義家 (2)和歌山 (3)高知 (4)川崎
(5)徳川吉宗 (6)参勤交代 (7)日露戦争 (8)徳川慶喜
問2 (1)源氏物語 (2)藤原道長
問3 (1)兵庫県 (2)北条政子
問4 (1)足利義満 (2)明
問5 水戸藩
問6 (1)三内丸山 (2)大森
問7 (1)福岡県 (2)佐賀県
問8 イ
問9 (1) 歌川広重 (2)ゴッホ
問10 (1)松下村塾 (2)出来事:萩の乱 中心人物:前原一誠
(3)多数の松下村塾の塾生たちが、萩の乱に参加したから
問11 (1)明治天皇 (2) ア
問12 (1)エ (2)エ
問13(1)下関条約 (2)イ
問14 ウ
問15 (1)ジュネーブ (2)ウ
問16 (1)南満洲鉄道 (2)大日本帝国 (3)松岡洋右
次回は上記リンクです。