前回は「過去問学びながら出来事など復習〜「徳川幕府の本質」参勤交代・「江戸が日本の中心」目指した徳川将軍・みんな歩いて江戸へ〜」の話でした。
幕府に圧力かけた外様大名・島津久光:世に出た「徳川の切り札」一橋慶喜
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引き続き、今年2025年、開成中で出題された社会(歴史)の問題を考えます。
歴史を横断的に考える問1の問題を解きながら、様々な側面の話をご紹介しています。
今回は少しハイレベルな話で、最難関校志望の人、歴史が得意な人向けの話です。
中学受験の歴史の範囲を少し逸脱するので、ざっと読んでいただければ良いと思います。
歴史の本質的な話をご紹介するので、「幕末維新の流れ」のイメージを理解してほしいと思います。
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前回、参勤交代の緩和に関して「文久の改革」の話をしました。
「文久の改革」は、徳川幕府の強い改革姿勢を示し、幕末に甚大な影響を与えました。


Hello!
Japan(日本)の皆さん!
オランダ通詞から「米国の使者が来る」ことを聞いていて「知っていた」徳川幕府。



本格的に、諸外国と
付き合わなければ・・・



鎖国を続けていたら、
我が国が植民地化されてしまうかも・・・
猛烈な危機感を抱いた幕府は、思い切った改革を推進することにしました。
それが1862年の「文久の改革」でした。





徳川幕府には、
もっとしっかりしてもらわねば困る!



我が薩摩などの
強力な諸藩の進言を聞いて頂きたい!



分かりました・・・
薩摩の要望を聞き入れましょう・・・
実は、文久の改革は徳川幕府が「自ら実行した」改革ではなく、「諸藩の圧力」による改革でした。


当時の将軍は、第十四代将軍 徳川家茂でしたが、若手で少し「ひ弱な感じ」の将軍でした。



家茂様では、とても
諸外国とは渡り合えん!



もっと、強力な人物に
補佐役になって頂きたい!





それには、英邁な一橋慶喜様に
強力な権限を与えて頂きたい!
島津久光の(異母)兄である斉彬の時代から、薩摩では、ずっと「一橋慶喜イチオシ」でした。
先代・斉彬の「慶喜への思い」を、上記リンクでご紹介しています。



私が徳川幕府を
支えます!
「家康の再来」と言われ、いわば「徳川の切り札」であった一橋慶喜が、いよいよ乗り込んできました。
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諸大名の中で「石高2位」であり、別格のパワーを持っていた薩摩。
しかし、外様大名の薩摩は、本来は「幕政に物申せる立場」ではありませんでした。



とにかく、慶喜様に
超強力な権限を!



承知しました・・・
慶喜様を、新設の将軍後見職に・・・



松平慶永(春嶽)様を
政事総裁職に就任して頂きます・・・
「薩摩の圧力」に屈さざるを得なかった幕府は、慶喜を「新設ポスト」に就任させました。
若く、頼りなかった将軍・家茂を補佐する体制が、文久の改革によって成立しました。
ガッチリ体制固めた幕府:文久の改革から生麦事件と薩英戦争へ


ここで、将軍後見職・政事総裁職と共に重要な色が新設されました。



松平容保様に
新設の京都守護職になって頂こう・・・
それまで、「京都長官」は「京都所司代」であり、秀吉の時代からあったポストでした。
この頃、京都では治安が猛烈に悪化していたので、「軍事力」が必要と考えた幕府。
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ここで、京都「守護」職という名称に注目です。
この「守護」という言葉は、「守護・護衛する」という意味がありますが、おそらく幕府は、



新たなポストには、
かつての「守護」のような存在にしよう・・・
鎌倉幕府・源頼朝が1185年に設置した「守護」のような強力な存在を期待したのでしょう。
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こうして、京都所司代の権限を遥かに上回る「京都軍事長官=京都守護職」が生まれました。





私は
将軍後見職だ!



私は
政治総裁職だ!



私は
京都守護職だ!
徳川幕府なりに「大きな危機」を感じていたこともあり、



ここで、我が幕府も
抜本的改革を!
幕府は幕府なりに「抜本的な改革」に踏み切ったのでした。



この体制ならば、
この時代を乗り切れるだろう・・・
他にも「西洋式への軍事改革」や「洋学研究推進」も、文久の改革の結果です。
そして、これらの「欧化推進」は、明治新政府と同じでした。
この意味では、明治新政府と徳川幕府がやっていたことは「大して変わらなかった」面もあります。



わっはっは!
この久光が幕府を変えたぞ!
そして、この「大改革」を「幕府に圧力をかけて超推進」した島津久光は大得意でした。



幕末、幕府も一生懸命
やっていたんだね・・・



幕府も時代の変化に
対応しようとしていたんだ・・・
ここで、さらにもう少し文久の改革の側面を見てみましょう。
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文久の改革が行われたのは、1862年7月でした。
そして、江戸へ行く途中の同年4月、久光は「寺田屋騒動」を引き起こしました。



この久光が、幕閣に直言しに
行くと言うのに・・・



我が薩摩藩士の中に、
勝手な行動をする輩がいる、だと・・・



・・・・・



構わん!
私の言うことを聞けない輩は斬れ!
こうして、「仲間同士が殺し合う」悲惨、というよりも凄惨な寺田屋騒動が勃発してしまいました。
そして、7月に「幕閣を無理やり変えて意気揚々」だった島津久光は、薩摩に帰ります。



さてと・・・
薩摩に帰ろうか・・・
同年8月、現在の神奈川県付近を通って、薩摩への帰路のこと。
「ある異変」が、島津久光の大名行列に起きました。



久光様!
異人が、我が行列に侵入しております!



な、なにっ!!!
異人が、我が薩摩の行列に、だと!



おのれ・・・
この久光は、幕閣を変えた人物だぞ・・・



それを異人ごときが、
我が行列に乗り込んでくるとは・・・
意気揚々としていた久光は、「プライドが傷つけられた気持ち」になってしまいました。



なぜ、なぜだ・・・
私は我が国で、かなりの力を持っているのだぞ・・・
外様大名の分際ながら、「老中(総理大臣格)にでもなったような」気分だった久光。
精神が高揚していたからこそ、その落差は激しく、一気に感情的になってしまった久光。



構わん!
斬れ!
こうして、1862年の生麦事件が起きました。



Japan如きが
我が国民を殺傷した、だと!



ふざけるなよ!
我が大英帝国の力を見せてくれる!
そして、翌1863年7月に薩英戦争に至ります。
薩英戦争は後世の視点から見て、「幕末維新を猛烈に推進した出来事」でした。



こうしてみると、
色々な出来事が関係しているね。
このように、幕末の流れを知っておくと、幕末維新の理解が進むでしょう。