過去問学びながら出来事など復習〜「徳川幕府の本質」参勤交代・「江戸が日本の中心」目指した徳川将軍・みんなで歩いて江戸へ〜|開成中2025年社会4・過去問・中学受験

前回は「地名や地形は地図でしっかり理解〜「丸暗記に走らない」学習で得点力アップ・旧国名を「丸暗記」ではなく地図で確認・海に広がる武蔵国〜」の話でした。

目次

過去問学びながら出来事など復習:「徳川幕府の本質」参勤交代

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引き続き、今年2025年、開成中で出題された社会(歴史)の問題を考えます。

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歴史に関する「総まとめ」にちょうど良い問題で、問1の答えは上記のとおりです。

この問題は、前半は多少点差がつくと思われますが、後半は比較的易しいです。

問1(5)〜(8)は、ぜひ完答して欲しい問題です。

過去問で、このような「語句を答える」問題を解く際には、「出来なかった問題」に対しては、

男子小学生

〜は分からなかったから、
ここで理解して、暗記しておこう!

しっかり理解して、知識を増強します。

「出来た問題」に対しては、

男子小学生

(6)は参勤交代で、
(7)は日露戦争で分かるからOK!

このように「OKだから次」という場合もありますが、「ただ問題を解く」ではなく復習すると良いです。

例えば、受験生ならば常識である「参勤交代」ですが、「参勤交代」とは何でしょうか?

女子小学生

諸大名が、一定の
期間ごとに江戸に行くことだよね。

この「参勤交代」という制度は、かなり特殊で、「徳川幕府の本質」とも言えます。

世界の歴史を見ても、このように「首都などに頻繁に訪れる制度」を制定した例は少ないです。

「ない」ことはありませんが、参勤交代のような制度の例は、諸外国でも少ないです。

参勤交代

1.諸大名が将軍の許に出仕:様々な勤めを実施

2.原則として1年に1度江戸へ:正室(奥方)と世継(嫡男)は江戸に残留

新教育紀行
江戸幕府第三代将軍 徳川家光(Wikipedia)
徳川家光

今年から、
諸大名は、毎年江戸に来なさい!

参勤交代を制定したのは、強力な権限を持った三代将軍・徳川家光の時代でした。

大名A

江戸に行くのも良いですが、
「毎年」ですか?

当時、首都である江戸に行くことは、諸大名としては、

大名A

江戸には
一回は行ってみたいが・・・

大名A

「毎年」となると
大変だ・・・

本音としては「一度や二度なら良いが、毎年は勘弁」だったでしょう。

なんといっても「大名が移動する」ので、「大名とその側近だけ」という訳には行きません。

大名A

我が藩の格式を
見せつけねば・・・

諸大名としては、自分が「わざわざ」向かう以上、ある程度の人数を整える必要があります。

徳川家光

江戸に来るのは、
遊びではないぞ!

徳川家光

軍役なのだから、
ある程度の人を連れてこい!

参勤交代の本質は「軍役」であり、大規模な藩では2,000人から3,000人引き連れました。

莫大な経費がかかり、事実上「藩最大の行事」であったのが参勤交代でした。

「江戸が日本の中心」目指した徳川将軍:みんなで歩いて江戸へ

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このような「歴史の出来事・人物」は、参考書に色々と書いてあるので、

女子小学生

ふ〜ん、
そうだったんだ・・・

このように「読んで理解」することが多いと思います。

ここで、ぜひ「ノートに簡単にまとめる」ことをお勧めします。

女子小学生

ノートにまとめるのは、
大変そうだし、難しい・・・

「難しい」と思わずに、「メモ書き」程度に考えて、

参勤交代をノートに書いて、まとめてみましょう。

筆者は「無地のノート」が望ましいと思いますが、「ある程度のガイド」があった方が整理できます。

今回も、引き続き「罫線のないノート」で自由な発想で書いてみます。

1623年に将軍に就任した徳川家光は、

徳川家光

余は生まれながらの
将軍である!

超強力な力を持っていた徳川幕府のトップとして君臨することを諸大名に宣言しました。

将軍に就任しましたが、まだ二代将軍 秀忠が存命中は、秀忠にもかなりの権限が残っていました。

1632年に秀忠が死去し、「本格的に徳川幕府トップ」となった家光は、

徳川家光

これからは、私なりの
やり方で、世を治めてみせる!

「自分流」での政治を強く望んだでしょう。

家光の政治は、鎖国の推進なども大きな特徴ですが、参勤交代もまた強力な政策でした。

参勤交代制度の最も重要な目的は「幕藩体制の維持」でした。

男子小学生

「幕藩体制」という
言葉は、難しく感じるけど・・・

「幕藩体制」は「府と諸の体制」のことです。

少し専門用語っぽいですが、理解しておくと良いでしょう。

かつては、「多額の経費を使わせて、諸大名の経済力・軍事力を削ぐ」ことが重要とされました。

現代では、この「諸大名の力を削ぐ」学説は後退しているようですが、「多少はあった」でしょう。

新教育紀行
京都が中心・重心の日本列島(新教育紀行)
徳川家光

我が国の中心は
京・大坂ではなく江戸!

日本の長い歴史において、「中心は京・大坂」であり続けました。

家康が幕府を開いた後、豊臣家があった時代も、ずっと「中心は京・大坂」でした。

「日本のトップ」は形式的には天皇であり、徳川将軍は「天皇から任命される」立場でした。

それでも、外国に対しては、

徳川家光

我が日本のトップ・大君は、
この徳川将軍だ!

「トップは徳川将軍」であり、「将軍がいる江戸」こそが「日本の中心」であるべきでした。

とはいっても、人々の意識や物流が、「すぐに変わる」ことはないので、

徳川家光

参勤交代で、大名たちは
毎年江戸に来い!

諸大名が「毎年、江戸に向かう」という「人とモノの流れ」は絶大な効果がありました。

そして、江戸は名実ともに、日本の中心となっていったのでした。

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ただし、こういう「無理のある制度」は、少しずつ形骸化するのが常です。

大名A

「毎年、江戸」は
移動するのが大変過ぎる・・・

現代ならば、新幹線や飛行機で「ひとっ飛び」ですが、当時は徒歩でした。

昔の人たちは、現代の人たちよりも「歩くのが得意」でしたが、大変だったでしょう。

大名A

経費もかかるから、
しばらく江戸にいようか・・・

このように、少しずつ参勤交代は変化しながらも、続いていました。

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ここで、参勤交代に「絶大な変化」を与える出来事が勃発しました。

新教育紀行
米提督 マシュー・ペリー(Wikipedia)
ペリー

Hello!
Japan(日本)の皆さん!

1853年のペリー来航によって、幕府は「参勤交代」どころではなくなりました。

徳川幕府

諸大名にも
協力してもらわねば・・・

徳川幕府

時代の変革期だから、
参勤交代は緩和!

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そして、1862年の文久の改革によって、参勤交代は大幅に緩和されました。

幕末のことで、明治維新の6年前のことでした。

このように、「語句」を復習しながら「語句の意味や内容」を復習すると、総合力が上がるでしょう。

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