日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いとポイント〜大日本帝国憲法制定の時代・明治維新の立役者たちの悲願・大日本帝国憲法の天皇=大元帥〜|日本の憲法1・中学受験

前回は「都市のインフラと河川と上下水道〜水の流れと勾配・家康入府前から現代への概観江戸の大改造開始・江戸の発展と堀割・現代の東京と街づくり〜」の話でした。

目次

日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いとポイント

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左上から時計回りに、明治天皇、昭和天皇、吉田茂、伊藤博文(国立国会図書館、Wikipedia)

今回は、「近代国家の根幹」である憲法に関して考えてみましょう。

日本における現行憲法は「日本国憲法」であり、戦後間もなく制定されました。

その以前に存在し、戦前まで有効だった憲法が「大日本帝国憲法」でした。

法治国家である日本には、実に多数の法律などが存在しています。

2024年1月現在、約1,900の法律、約5,600の政令・省令などあり合計で約7,500の法律が存在する日本。

これらの法律の頂点に立つのが、憲法です。

日本の憲法と法律

・憲法:全ての日本国内法の頂点

・約7,500の法律が存在:約1,900の法律、約5,600の政令・省令

法治国家に住んでいる以上、法律に違反してはなりませんが、最も重要なのが憲法です。

これまでに日本に存在してきた2つの「日本国憲法」と「大日本帝国憲法」は、全く異なる憲法です。

世界中の様々な国家それぞれに憲法が存在しますが、「完全に異なる憲法」を持つ国は少ないです。

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ニューヨーク(新教育紀行)

国家の成立経緯が全く異なるので比較の対象にはなりにくいですが、米国(アメリカ合衆国)と比較します。

米国では1788年に成立した「アメリカ合衆国憲法」が現行も続き、修正・改正が行われています。

第二次世界大戦後に限ると、アメリカ合衆国憲法は6回の修正・改正が行われています。

日本の江戸時代に成立した憲法が、230年近く経過した今もなお憲法であり続けている米国。

日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いを比較してみましょう。

大日本帝国憲法日本国憲法
公布1889年(戦前・明治時代)1946年(戦後・昭和時代)
主権天皇国民
天皇神聖不可侵の元首日本国民統合の象徴
戦争天皇が陸海軍を率いる戦争を放棄
軍隊国民に兵役義務交戦権否定
日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違い

そもそも1889年までは「憲法が存在しなかった」国が日本でありました。

そして、「東アジアで最初に憲法を制定した国」が日本です。

米国に遅れること「100年ほど(101年)後」に、日本において「最初の憲法」が制定されました。

そして、大日本帝国憲法制定後、現在まで130年余りの間に「憲法が根底から変わった」のが日本です。

実態としては、敗戦によって「憲法が根底から米国に変えられた」のが我が国・日本です。

大日本帝国憲法制定の時代:明治維新の立役者たちの悲願

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

明治維新を成立させた明治新政府の中心人物たちの目標は、

一刻も早く、
欧米のような近代国家を!

そうだ!藩はなくして、
中央集権を進めるのだ!

おいどんも新しき国づくりに
賛成ごわすが、士族あっての討幕であった・・・

とにかく、徳川時代の
悪習は全て破棄して、新たな国家を!

とにかく、「欧米に追いつけ、追い越せ」がスローガンでした。

実態としては「欧米を追い越せ」は到底不可能であり、まずは「欧米に追いつけ」でした。

とにかく、学問も国家体制も
欧米から直輸入だ!

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岩倉使節団(Wikipedia)

そして、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文たちは海外視察へ向かいました。

岩倉使節団の目的

1.江戸時代に締結した(させられた)不平等条約改正の(予備)交渉

2.条約締結中の先進国の国家元首に国書を提出

3.西洋の先進文明の実地調査

「岩倉使節団」の最も重要な目的は、徳川時代末期の「不平等条約の改正」でした。

俺たちがメリケン(米国)などへ
直接行って、交渉してくるぞ!

幕末に謀略の限りを尽くして倒幕に成功した岩倉・大久保・木戸たち。

私たちは、あの徳川の世を
終わらせたのだ!

弱腰の徳川とは
全然違うところを見せてやろう!

正使の岩倉、副使の大久保・木戸・伊藤・山口は自らに「相応の自信」を持っていました。

最初の訪問国・米国に到着した岩倉使節団を迎えたのは、

Hello!
Japanの皆さん!

Japanって、Samuraiの国でしょ。
なかなかいいじゃん!

米国での大歓迎でした。

この大歓迎を受けて、大満足の岩倉たち。

これは大変な
歓迎っぷりだな!

これなら、
メリケン(米国)との交渉も上手く行きそうですね!

こう思った岩倉たち。

ところが、その考えは「甘い考え」として即座に粉砕されることになりました。

憲法すらなく「法治国家とは到底言えなかった」日本(大日本帝国)。

Japanの皆さん、国家元首である
天皇=Emperorの委任状または親書は?

委任状か親書?
いや、それは持ってないが・・・・・

私たちは、確かに
大日本帝国の明治天皇の代理だ!

・・・・・

それでは、国家間の交渉は
始まりませんが・・・

な、なに?!

これは
迂闊であった・・・

「迂闊」という言葉が全く似合わない大久保も大失態を演じ、

私と伊藤が一度帰国して、
明治天皇から親書をもらってきます!

大久保は、急遽日本に一時帰国しました。

米国や欧州を回った岩倉使節団は、「最先端の文明を実際に見聞する」という大きな役目を果たしました。

ところが、最も大事な政府の役目である「条約交渉」は「成果ゼロ」といいう結末に終わりました。

その後、維新の立役者たちは次々亡くなりました。

死没年名前死の原因
1877木戸孝允病死
1877西郷隆盛自刃(西南戦争)
1878大久保利通暗殺
1883岩倉具視病死
「維新の四傑」の死没年と原因

彼らの遺志を継ぐ立場の最有力者が、長州出身で薩摩出身の大久保とも良好だった伊藤博文でした。

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初代内閣総理大臣 伊藤博文(Wikipedia)

とにかく、我が国の
憲法を作らねば!

1885年に初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文。

日本で最初の
内閣総理大臣だ!

伊藤は「憲法制定」を最優先して、次の内閣を黒田清隆に任せました。

黒田よ、私は憲法制定を最優先し
枢密院議長となる!

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大日本帝国憲法発布(Wikipedia)

そして、1889年に公布にこぎつけたのが「大日本帝国憲法」でした。

先輩たちの
悲願を果たした・・・

幕末維新から「走り続けてきた男」伊藤博文は、感無量だったでしょう。

大日本帝国憲法の天皇=大元帥

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明治天皇(国立国会図書館)

大日本帝国憲法においては、「天皇主権」であり「神聖不可侵の元首」でした。

つまり、天皇は日本国民を束ねる「神のような存在」であったのでした。

これは、「一神教」の欧米においては「到底受け入れられない概念」でした。

ある意味、多神教・無神教の方が多い「日本ならでは」のことだったかもしれません。

大日本帝国憲法
公布1889年(戦前・明治時代)
主権天皇
天皇神聖不可侵の元首
戦争天皇が陸海軍を率いる
軍隊国民に兵役義務
大日本帝国憲法と天皇

憲法上は、

朕(私)が日本国民を
代表し、率いるのだ!

であり、明治天皇もこのように思っていたでしょう。

ところが、大日本帝国憲法では、

朕が大日本帝国の
陸海軍の最高司令官だ!

でありますが、実際には日清戦争・日露戦争などで「明治天皇が最高司令官」ではありませんでした。

実態は、

具体的な陸海軍の指揮は、
陸海軍大臣、参謀総長たちに全て任せる!

であり、「憲法とは異なる」状況が現実でした。

日露戦争において、乃木希典大将(将軍)の203高地攻撃において「乃木交代論」が勃発した時、

乃木を代えては
絶対にならんぞ!

と明治天皇が政府に「指示した」説もありますが、諸説あります。

基本的には、明治天皇後も「政治・軍事の実権は日本政府」でした。

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アイブラハム・リンカーン第16代米大統領(Wikipedia)

例えば、南北戦争の時にリンカーン大統領は、

総司令官は
グラント将軍だ!

他にも
適任がいるかと思いますが・・・

いいから、グラントで決定だ!
私は米軍最高司令官の大統領なのだ!

など司令官人事等に積極的に、主体的に命令を下した米大統領とは全く異なりました。

昭和天皇(Wikipedia)

時代は変わり、明治時代・大正時代が終わり、昭和天皇が即位して昭和時代が始まりました。

1926年が昭和元年であり1901年生まれの昭和天皇は、この時若干25歳の若さでした。

朕(私)は大日本帝国を
統括する立場だ・・・

時代は戦争の時代であり、5年後の1931年には満州事変が勃発し、日中戦争が拡大しました。

さらに、1941年には対米戦が開始し、日本は本格的に第二次世界大戦に参戦しました。

「天皇主権であり、神のような国家元首」であるまま、日本は第二次世界大戦に突入したのでした。

大本営組織図(歴史人2019年9月号別冊 KKベストセラーズ)

神のような絶対的存在であった昭和天皇(陛下)は、

朕は
大日本帝国の天皇である・・・

さらに、朕は大日本帝国の
大元帥である・・・

全ての大日本帝国の陸海軍の頂点に立つ立場であったのが、日本の天皇=大元帥でした。

ところが、先の明治天皇と同様に、

具体的な陸海軍の指揮は、
陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長たちに全て任せる・・・

であったのでした。

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左上から時計回りにスターリン・ソ連最高指導者、ルーズベルト米大統領、ムッソリーニ・伊首相、ヒトラー独総統(Wikipedia)

程度の差はあれ、「軍事・政治のほぼ全容」を把握していた世界各国の国家元首たち。

ドイツ軍のことで、
私が知らぬことはない!

ニミッツ長官もマッカーサー司令官も
私の指示に従うのだ!

ところが、「日本の陸海軍を統帥する」昭和天皇は、

今、日本陸軍・海軍は
どうなっているのだ?

昭和天皇に上がる情報は限定的であり、中には「虚偽情報」もあるほどでした。

「天皇(陛下)が最高権力者」なのに「軍の実権は天皇ではなく参謀総長たち」という特殊な状況でした。

この「特殊な状況」があったにしても、

朕は大日本帝国の
主権者であり国家元首・・・

だったのでした。

このように、現代日本の状況、そして日本国憲法では考えられない状況でした。

まるで、「異なる国家」であるほど違うのが「日本国憲法」と「大日本帝国憲法」でした。

この二つの憲法の「異なる点」は多数あります。

その中、「天皇(国家元首)と国家体制」に関する規定が「別の国家ほど全く異なる」こと。

この点こそが、この二つの憲法の根幹的な違いでした。

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