前回は「武士の最後を飾った猛将・河井継之助〜新政府軍との死闘・山本五十六が尊敬した河井・善戦する奥羽列藩同盟・官軍増援部隊の来襲・迅衝隊の乾退助〜」の話でした。
稀代の猛将・土佐の乾退助
明確な劣勢の中、苦戦しながらも戦い続ける奥羽列藩同盟。
官軍の増援部隊:迅衝隊の指揮官・隊長は、後の参議・板垣退助でした。
当時、乾退助率いる土佐藩士から成る迅衝隊は、非常に精強でした。
強力だったからこそ、戦線膠着する奥州に増援部隊として送り込まれてきたのです。
この写真を見るからに、強そうで怖そうな乾退助。
ワシは、
自由民権運動で有名らしいが・・・
実は、
優れた軍人だったのじゃ!
確かに板垣ほど優れた軍人は、当時非常に稀でした。
土佐藩の上士であり、藩主であった山内容堂からも非常に気に入られていた乾退助。
乾は我が土佐藩の
宝である!
ははっ!
土佐藩の軍事はお任せを!
海援隊の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎:幕末の土佐藩
土佐藩上士出身だった乾退助は、坂本龍馬・中岡慎太郎らと共に土佐藩の倒幕派急先鋒でした。
幕府を
ブチ倒すのだ!
郷士として、土佐藩では異常に身分が低かった坂本龍馬・中岡慎太郎。
坂本と中岡の二人は、長州藩の奇兵隊のような軍隊を組織します。
坂本龍馬が海援隊を創設し、中岡慎太郎が陸援隊を創設します。
海援隊長、
坂本龍馬だ!
陸援隊長、
中岡慎太郎だ!
ここに「陸と海」でそれぞれ明確に軍隊を創設した坂本と中岡の先見性は、非常に優れています。
余談ですが、「海援隊」という言葉は現代にも生きています。
1970〜80年代にかけて大人気だった「贈る言葉」などヒット曲を飛ばした海援隊というバンド。
この「海援隊」という名前は、リーダーの武田鉄矢が、
僕は坂本龍馬を
尊敬している!
から、「龍馬の海援隊」から名前を借りて、バンド名を「海援隊」としました。
この意味でも、坂本龍馬たちの影響力はとても大きいです。
「贈る言葉」は非常に良い歌で、小学生の頃に学校で歌った方も多いでしょう。
土佐藩士を
率いて、戦うぞ!
そして家柄がよく、藩主・山内容堂に可愛がられた乾退助。
乾は土佐藩士、つまり正規軍を率います。
奇兵隊などの力も
強力だが・・・
私は正規軍・土佐藩士を率いて、
倒幕の大きな力になったのだ!
官軍の一員として、土佐藩士を率いて、東海道を北上します。
板垣退助へ改名した乾:巨大な武田信玄の影響力
のちに長者の風格すら漂わせている板垣退助。
幕末の若かった頃に乾退助の名であった板垣は、まだまだバリバリの青年であり、
うおおお〜
我こそ土佐の乾なり!
俺に歯向かえる奴は
まとめてかかってこい!
全員束になってきても、
俺は相手になってやるぜ!
かなり危なっかしい人物でした。
のちに、薩長土肥と言われますが、薩長に続いて土佐藩が歴史の表舞台に乗り込んできました。
薩長ばかり目立つ幕末の時代でしたが、土佐藩の上の四名もかなりの存在感を放っています。
特に有名なのは坂本龍馬ですが、坂本龍馬は「脱藩者」である不安定さが強かったのが現実でした。
そして、薩長と大きく異なるのは、後に許されるとしても脱藩者と正規藩士が混在していたことでした。
・(正規)藩士:乾(板垣)退助、谷干城
・脱藩者:坂本龍馬、中岡慎太郎
薩摩も長州も「倒幕」の意思のもとに統一感があったのに対して、土佐藩はバラバラな感じでした。
我が土佐藩は、神君・家康公から
土佐一国を賜ったのだ!
薩長の藩主である島津・毛利は関ヶ原の戦いで西軍で、それ以来「反徳川」が鮮明でした。
対して、外様ながら「親徳川」の代表格でもあった土佐藩は、全く姿勢が異なっていたのでした。
ここに、土佐藩出身であった坂本龍馬、中岡慎太郎の悲劇の根源がありました。
「徳川幕府倒幕」で固まった土佐藩の藩士と元藩士たち。
ところが、姿勢はバラバラでした。
徳川を
武力討幕するのだ!
そう、徳川を
武力討幕!
とにかく、徳川を
武力討幕するのだ!
こうして、徳川幕府を「倒幕=討幕」する方針を固めていた乾・谷・中岡。(中岡は諸説あり)
対して、坂本龍馬は、
まあ、徳川幕府の機構を
無くせばいいぜよ・・・
別に、わざわざ
戦争を仕掛けんでも良いのでは・・・
討幕しなくても、
倒幕すれば、いいぜよ・・・
龍馬!
お前の考え方はぬるい!
「武力討幕」で早々に固まっていた薩長と異なり、土佐は「倒幕」派と「討幕」派に別れました。
現実としては、この四名の力関係は「(正規)藩士」であった「乾たちの方に分があった」のが現実でした。
戦争しなくても、
大政奉還で良いのでは・・・
この「討幕」派と「倒幕」派で大きく割れた中、
な、なにっ!
うぐっ・・・
な、なに・・・
ま、まさか!
坂本龍馬と中岡慎太郎は、突如何者かに暗殺されたのでした。
俺は土佐藩士を率いて、
江戸方面に乗り込む!
強烈な強さを発揮した乾率いる土佐藩士たち。
乾どんは、
強か!
屈強の薩摩藩士たちに劣らない強さを見せつけた乾退助率いる土佐藩士たち。
そして、天領(幕府領)・甲斐を攻める際に改名します。
それは、乾家が戦国時代の武田家の著名な家臣・板垣信方の遠縁であることから、(諸説あり)
「板垣」の方が、
甲斐の民衆に親しみがある・・・
と考えたからです。
「板垣退助」ならば、
新政府軍が甲斐を押さえやすいだろう・・・
乾退助は、「板垣退助」になりました。
今でも超有名人の戦国大名・武田信玄。
全国的に人気があり、特に山梨県では現在でも絶大な人気を誇ります。
江戸時代の頃、甲斐は天領(幕府領)でした。
藩がなかったために「藩祖」がいないこともあり、武田信玄が神のような存在だったのです。
板垣退助って、
政治家と思っていたけど・・・
若い頃は、
結構強そう・・・
ちょっと
怖そうだね・・・
若き頃の板垣退助は、バリバリの武闘派だったのです。
倒幕戦の終盤の軍事指揮者は、長州の医師・大村益次郎(村田蔵六)でした。
戦争では指揮官が大事ですが、前線で突破する人物も非常に大事です。
自分で言うのもなんだが、
私は頭がとても良い・・・
私の言う通りにしていれば、
あなた方は勝てます・・・
総司令官を絵に描いたような人物であった、かなり傲慢だった大村益次郎(村田蔵六)。
うおりゃーっ!
敵を倒せ!
対して、「優れた・強き前線指揮官」を絵に描いたような人物こそ、若き板垣退助だったのでした。
我が仙台藩は
どうなってしまうのだろう・・・
名門であり大大名であった仙台藩に生まれた後藤新平でしたが、にわかに不安定な世の中になりました。
まだ少年だったものの、分別がついてくる年頃だった後藤少年。
僕は
どうなってしまうのだろう・・・
後藤少年は、とても不安な日々を過ごしていました。
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