紀尾井町の名前の由来〜徳川御三家・紀伊と尾張と水戸・少し格下の御三家水戸藩・別格の存在だった井伊家〜|歴史の痕跡1・中学受験・歴史

前回は「歴史の知識・記述対策〜徳川幕府から新政府へ 3:廃藩置県の実態・岩倉具視の策略・明治天皇の登場・再び結集した維新の元勲たち・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・板垣退助・島津久光〜」でした。

目次

紀尾井町の名前の由来

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ホテルニューオータニ(Wikipedia)

今回は現代にも残る歴史の痕跡から、歴史の理解を深める話です。

東京都の中央に位置する「紀尾井町」を考えてみましょう。

ご存知の方も多いと思いますが、紀尾井町は都内の非常に高級なエリアです。

千代田区の中でも、格別に高級で優雅な雰囲気がする紀尾井エリア。

ホテルニューオータニはじめとする高級ホテルなどが数多くあります。

実は、この「紀尾井」という名前には由来があります。

由来があるの?
「紀尾井」という固有名詞だと思っていた・・・

街の名前だから、
昔「紀尾井」さんがいたのかな・・・

「紀尾井さん」と考えるのはいい線ですが、少し違うので考えてみましょう。

固有名詞ではなく、ヒントは「3つの名前の頭文字」です。

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公園の桜(新教育紀行)

実は紀尾井町は、もともと伊徳川・張徳川・彦根伊の各藩の藩邸があった地域です。

そこで、これら3家の頭文字をそれぞれとって「紀尾井」と命名したのです。

そうなんだ!
紀伊・尾張・井伊が由来なんだね!

そう考えると、
面白いね!

徳川御三家:紀伊と尾張と水戸

御三家:徳川葵紋(Wikipedia)

紀伊徳川・尾張徳川・水戸徳川は「徳川御三家」と呼ばれ、将軍家につぐ家格とされていました。

これら三藩は他の藩とは全く異なる扱いで、江戸時代は「別格」でした。

徳川御三家

紀伊徳川家:55万石

尾張徳川家:62万石

水戸徳川家:35万石

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戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

豊臣秀吉とは異なり「子沢山」だった徳川家康。

我が子ども達、
徳川一門に重要な地を任せるのだ!

関ヶ原の戦いの後、敵であった西軍の領土を没収して味方の東軍の武将に領土を分配した家康。

その際に、抜け目なく徳川一門を各地に配しました。

1603年に征夷大将軍となった後も、1614〜1615年の豊臣滅亡の大坂の陣頃まで多少混乱が続きます。

この頃に、様々な大名が取り潰されるプロセスで、ますます徳川一門の力が強まりました。

少し格下の御三家・水戸藩:別格の存在だった井伊家

第十五代将軍 徳川慶喜(Wikipedia)

実はこの中で水戸徳川は少し格下に扱われていて、紀伊・尾張とは同格ではなかったのです。

この「家格が少し落ちる」水戸藩出身の最後の将軍 徳川慶喜。

ちょっと家柄が落ちるらしいけど、
私の頭脳はピカイチなんだ!

「家格が落ちる」ことが将軍になるにあたっての一つの、そして大きな障害でもありました。

そして、「屋敷が並んでいた」とは言え御三家である紀伊徳川・尾張徳川と一緒に並んでいる井伊家。

徳川家臣筆頭であった井伊家は、「御三家と並んでいた存在」ということが分かります。

井伊家の家柄が、諸侯の中で抜きん出ていたことがわかります。

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大老 井伊直弼(Wikipedia)

「徳川」ではないが、
井伊家は徳川とほぼ同格・・・

という認識であったことが、この地名からわかります。

井伊家の藩祖・井伊直政に関して、別サイト「新歴史紀行」の上の記事で書いています。

このことから、幕末における大老 井伊直弼のスタンスがわかります。

神君・家康公を補佐した
井伊直政様が藩祖だ・・・

御三家と
同格の井伊家だ・・・

そして、私が屋台骨が揺らいでいる
徳川を救うのだ!

そして、「徳川を守るため」と「やりすぎた」としか表現できない安政の大獄

私が徳川を救うために、
一気に不満分子を消して見せよう!

この一大事件を「強行した」大老・井伊直弼の気持ちが、少しわかる気がします。

井伊家が徳川を
混迷から救い出すのだ!

という井伊直弼の「徳川家に対する忠誠の気持ち」が。

そして、あまりに「やりすぎた」ために、強烈な反作用を受けた井伊直弼。

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桜田門外の変(Wikipedia)

井伊!
覚悟しろ!

お前達!
大老である私は総理大臣だぞ!

井伊よ!
死ね!

うぐ・・・
ま、まさか・・・

後世「悪の権化」とされる大老井伊直弼は、「徳川幕府の視点」から見れば「正義の権化」だったのでした。

そして、その政治的能力は一流以上だったでしょう。

1860年に起きた「桜田門外ノ変=井伊大老暗殺」は、徳川幕府にとっては致命傷となりました。

「やり過ぎた」井伊直弼の異常ともいえる強行姿勢。

そこには「名門井伊家を背負う者の思い」以上の強い気持ちがあったでしょう。

我が井伊家は、
「紀尾井」と並び称せられる特別な存在なのだ!

「紀尾井」と徳川御三家と並び称されることへの極めて強い気持ちが。

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