超大物・板垣退助に喧嘩を売った後藤新平青年〜大いなる強気と苦言・愛知県病院長へ出世・上下水道完備を強く推進・政界の超大物の治療〜|後藤新平17・青年時代・医師

前回は「周囲に積極的に提言する後藤新平青年〜西南戦争の体験をもとに・安場保和へ直談判:予防医学推進へ・内務省へ・長与専斎との出会い〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

愛知県病院長へ出世:上下水道完備を強く推進

長与専斎 内務省衛生局長(Wikipedia)

東京出張で内務省衛生局などで、予防学の大事さを説いて回った後藤青年。

適塾出身で非常に優れた医師だった長与専斎衛生局長に懸命に「予防の大事さ」を説きます。

予防が
大事です!

うむ!
確かに!

君の言わんとすることは、
よく分かる!

現代「予防は大事」というのは当たり前ですが、当時はそうではなかったのです。

そもそも「予防」という概念すら、ほとんどなかった日本の医療界。

もちろん「ワクチン」は存在せず、「病気になった後に治療」が当然の考え方でした。

最先端のドイツで学び、優れた頭脳と類いまれなる積極性を持った後藤は異質でした。

上下水道の整備など、
病原菌を絶つのです!

江戸時代にも、かなりレベルの高い上下水道はありました。

江戸は、非常に完成度が高いエコな都市であり、上水は玉川上水などで江戸に引きました。

そして、下水道もある程度完備されていましたが、木製の下水管であり不十分な面はありました。

さらに、江戸時代から明治時代になり、人口が増えたため下水道はパンク状態だったのです。

「下水の重要性」は理解していても、「道路の下に下水管を設置」するのは大変な事業です。

大規模な工事が必要であり、長い時間と莫大なお金がかかります。

トイレでジャーッと水を流せば、下水はどこかへ行ってくれる便利な現代生活。

この実現に向けて、後藤は方々で、

早く上下水道を
完備しましょう!

大変な費用がかかるが、
それを目指してやってみよう。

中央政府の医学の中心部である衛生局で、後藤の存在は大きく意識されるようになりました。

後藤という男、
できるな・・・

あの積極性は、
なかなか持てないな・・・

ドイツに留学した
秀才らしいぞ・・・

少し強引な感じだが、
面白いやつだな・・・

名声をあげた後藤は、順調に出世します。

そして、弱冠25歳にして愛知県病院長兼愛知県医学校長に就任します。

ますます
俺は頑張るぞ!

現代ならば、まだ医学生の年齢で病院長に就任という異例の早さ。

これは、当時西洋医学を学んだ若者が少なく、日本政府の西洋医学推進の影響が強かったのです。

政界の超大物の治療

板垣退助 自由党総理(Wikipedia)

忙しい毎日を送る後藤の元に、夜中に電報が届きます。

岐阜で
板垣総理が負傷しました!

大至急、治療に
きて欲しい!

分かりました!
大至急向かいます!

征韓論争などで、西郷隆盛と共に下野した板垣退助。

自由党を結党して総理(党首)に就任して、自由民権運動を強力に推進していました。

「総理」は現代では「総理大臣」を指します。

この時は、まだ内閣総理大臣は存在してなく、「総理」は「自由党党首」のことです。

遊説中に刺客に刃物で攻撃された板垣は、

板垣死すとも、
自由は死せず!

と叫んだと言われています。(諸説あり)

流石に刃物で攻撃されている中、流石にこういうことは言えないでしょう。

そのため、この「板垣死すとも・・・」は多少は創作されているでしょう。

一方で、こうした「創作」もまた、もともとバリバリの軍人であった板垣ならではです。

戊辰戦争で、銃弾の中をかい潜ってきた最前線の司令官だった板垣(乾)。

かつて「軍人中の軍人」だった板垣だからこそ「似合う言葉」でした。

バリバリ医師として働いていた後藤青年は、

よしっ!
俺が治して見せよう!

瞳を輝かせて、「人のために役立つ」気持ちを強くしました。

ここで、「板垣」という名前が引っ掛かった後藤青年。

板垣・・・
板垣か・・・

どこかで
聞いたことがある気がする・・・

少し頭を傾げて考える後藤青年。

板垣という
人はいたかな・・・

ところが、後藤の友人や親戚には「板垣」という人はいないです。

まあ、
勘違いか・・・

とにかく、
早く治療の準備をしなければ!

治療に向かうために、小走りになった後藤は、

「退助」という名前は、
珍しいな・・・

と、治療のことをボンヤリ考えながら、思考が過去へ向かった後藤。

はっ!
まさか!

ハッと気づきました。

後藤青年の脳裏に、幕末の出来事が思い起こされました。

板垣退助とは、
まさか・・・

迅衝隊隊長の乾(板垣)退助(前列中央)(Wikipedia)

あの迅衝隊の
乾退助か!

仙台藩などの奥羽列藩同盟を攻撃した張本人の乾(板垣)退助。

新教育紀行
土佐藩士 乾(板垣)退助(Wikipedia)

若き頃は、かなり優れた超一級の軍人であった板垣(乾)退助。

うおおお〜
我こそ土佐の乾なり!

全員束になってきても、
俺は相手になってやるぜ!

薩長土肥の一角の土佐藩の軍事部門の代表者でした。

そして、後藤新平が「朝敵の一員」となったキッカケを作った人物とも言えます。

お、
おのれ・・・

俺を賊軍にした
一派か・・・

後藤の心の中で、どす黒い昔の「悪夢の時代」が蘇ってきます。

あの頃、賊・朝敵と言われたことほど
嫌なことはなかった・・・

敵の大将であった、
あの乾か・・・

唇を噛む後藤。

・・・・・

ここで、賢明な後藤青年は、

俺の人生で最も辛い
時期を作った原因の一人の板垣・・・

だが、
俺は医師なのだ!

医師として
最大限尽くす!

と懸命に板垣の治療にあたります。

超大物・板垣退助に喧嘩を売った後藤新平青年:大いなる強気と苦言

安場 保和 愛知県令(Wikipedia)

極めて順調に出世した後藤の背景には、安場愛知県令がいました。

異常に後藤を可愛がっていた、安場愛知県令の意向も考えた後藤。。

私は医師であり、
安場さんにも報いなければ・・・

そして、

ご負傷ですか・・・
ご本望でしょう・・・

と板垣総理(党首)に苦言を呈します。

なに?!

これくらいのことは
言わねば、我が身が持たんわ・・・

これが、後藤青年の「精一杯の復讐」でした。

ふん!

軽くあしらった板垣総理。

あいつは
政治家向きだ!

医師にしておくのは
勿体無い!

これは、かなり肝が据わってないと出来ないことです。

政界の超重鎮に「喧嘩を売る」ことは、大変な事態です。

どこで、何を仕返しされるか分かりません。

さらに、元々土佐藩士を率いた「元軍人」の板垣には、

命にかえても、
板垣先生を守る!

板垣先生の敵は
全て消す!

という方々が多数いたはずです。

そういう、「武力に訴える」方から命を狙われるかも知れません。

そんなこと
関係ない!

それでもなお、自らの思いを貫いた後藤青年。

後年、異常なまでの強気姿勢を貫いた後藤の姿勢は25歳のこの時、すでに完成していました。

新教育紀行

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