前回は「後藤新平 14〜医学部へ・安場保和・愛知県病院〜」の話でした。

西南戦争:西郷隆盛の出撃
江戸時代から明治時代となり、大きく変化した世の中。
最も大きな影響を受けたのは、旧武士(士族)たちでした。
ふざけんな!
なにが
新政府だ!
不満を持った旧武士たちは、萩の乱、佐賀の乱、神風連の乱と次々に反乱を起こし、鎮圧されます。

そして、ついに西郷隆盛が旧薩摩藩士族に押されるように反乱を起こします。

新政府幹部の
華美な生活は、一体なんなんだ!



討幕の目的は、
これではなかったはず!



私自ら東京へ行って、
正しい道に修正してもらうごわす!
強力な薩摩藩士を13,000名を率いて、東京目指して鹿児島を出発しました。
「13,000名の軍隊」の反乱は、非常に大きな衝撃です。
当時の日本の人口が3,000万人程度であったことを考えると、現代では、
13,000x 4 =52,000名
の大軍隊となります。
現代、50,000名を超える軍隊が、日本国内・近海で活動していたら「尋常ならざる非常時」となります。
しかも、その軍隊が「最強の将兵」ならば、もはや恐慌状況となります。





賊軍を
叩き潰すのだ!
薩摩出身で、もともと西郷の同志・弟分であった大久保利通 内務卿。
事実上、陣頭指揮を執って、反乱軍鎮圧に乗り出しました。
この反乱は、未曾有の大戦争となります。


政府軍、西郷軍双方に多大な死傷者を出し、政府軍は6200名余りの死者を出します。
大勢の負傷者を出した為、治療する大病院が必要になります。
そして、大阪鎮台に巨大な臨時病院が創設されました。
大阪へ


大阪鎮台の臨時病院の院長に就任したのは、軍医 石黒忠悳でした。
石黒は大学東校(東京帝国大学医学部の前身)で教鞭を執り、その高い能力を政府に買われたのです。
石黒院長の元で、大勢の医師・看護師が集められ、8000名以上の負傷者が送られてきました。
日本の史上初の大規模な医療機関です。
ここに、大勢の医学の大家が集まりました。



俺も、医師として
国に尽くすのだ!
この状況を聞いた後藤。
愛知から大阪へ向かい、石黒院長に面会を申し込みます。



ここで、外科医として
奉仕したいのです!



気持ちは、
大変有難いが・・・



君は、
まだ正式な医師ではない。
医師免許に合格した後藤は、まだ免許がおりてなかったのです。
組織がしっかりしている軍では、無免許の医師を「医師として」は採用できません。



そこを
なんとか!



正式採用は難しいが、
臨時雇いならば・・・



それで
いいです!
予防への目覚め



頑張るぞ!
「正式な医師ではない」ものの、医師として十分な能力を持つ後藤。
膨大な負傷者を前に、どんどん手術を行って、大勢の方を助けます。
ここで、大変な光景を目にした後藤。



これは・・・
九州から負傷兵を船に乗せて、神戸港へやってきます。
九州では、当時コレラが大流行していました
そして、負傷兵と共にコレラが大阪にも持ち込まれて、大変な惨状となります。



なんとか
しなければ!


ドイツの医師・細菌学者 Robert Kochが、これら菌を発見するのは1883年。
西南戦争勃発の6年後であり、当時「不治の病」だったコレラ。
幼い頃に、戊辰戦争で大変な経験をした後藤。
1877年当時、コレらによる死者は日本全国で8,000名を超え、大変な事態となっていました。



病気を
予防するのだ!



我が国には、その医学・科学の知識が
足りない!
ここで、医師として活躍しながら、医学の将来に関して考える後藤でした。



なんとか
しなければ!