前回は「安場保和との出会いと開かれる後藤新平の運命の扉〜気性の荒い後藤青年:問題児筆頭の若き頃・放任主義・「賊」と言われて激怒・嫌になって上京後すぐ仙台へ〜」の話でした。
武士たちの希望の星・西郷隆盛の出撃:西南戦争の巨大な衝撃
江戸時代から明治時代となり、大きく変化した世の中。
最も大きな影響を受けたのは、旧武士(士族)たちでした。
一体なんなんだ!
ふざけんな!
なにが
新政府だ!
不満を持った旧武士たちは、萩の乱、佐賀の乱、神風連の乱と次々に反乱を起こしました。
この頃、征韓論争(明治六年の政変)で参議を辞職して佐賀に戻っていた江藤新平。
こんな新政府
我慢できません!
江藤さんが我が佐賀の
ボスとなって、この世を変えてください!
・・・・・
「薩長土肥」と呼ばれ、新政府軍の中心勢力に躍り出た肥前・佐賀藩でした。
実際、維新の戦いにおいて、薩長土よりは肥はかなり遅れをとったため、「薩長土+肥」でした。
岩倉使節団不在の間に、肥前・佐賀藩は勢力を一気に伸ばし、江藤は「肥前の中心」でした。
そうか、
やってみるか・・・
大物であった元参議・江藤新平が「佐賀の乱」を起こしましたが、
私が全権委任を
受けたのだ!
江藤一派を
早期に叩き潰せ!
全権委任された大久保自ら乗り込んできて、江藤たちは早々に鎮圧されてしまいました。
・・・・・
見せしめに、
江藤を斬首・晒し首にせよ!
さらに元「藩士=武士」であり元参議である江藤を「晒し首」にするという異常な極端に走った大久保。
それは
やりすぎだろう・・・
不平士族たちへの
見せしめです!
現代の大臣を超える権力を持っていた参議という超大物だった江藤。
その江藤ですら、反乱を起こしてもあっさり倒されてしまいました。
西郷先生!
大久保の野郎は許せません!
この乱れた世を変えられるのは、
西郷先生しかいません!
・・・・・
そして、ついに西郷隆盛が旧薩摩藩士族に押されるように反乱を起こします。
西郷先生!
あの明治維新はなんだったごわすか!
おいどんの体は
おはんたちに預けもそ・・・
「戊辰戦争から明治維新の顔」であった西郷。
その西郷が、ついに最強藩士・薩摩士族を率いて鹿児島を出撃しました。
新政府幹部の
華美な生活は、一体なんなんだ!
討幕の目的は、
これではなかったはず!
私自ら東京へ行って、
正しい道に修正してもらうごわす!
強力な薩摩藩士を13,000名を率いて、東京目指して鹿児島を出発しました。
「13,000名の軍隊」の反乱は、非常に大きな衝撃です。
当時の日本の人口が3,000万人程度であったので、現代の1/4程でした。
このことを考えると、現代では、
13,000x 4 =52,000名
の大軍隊となります。
現代、50,000名を超える軍隊が日本国内・近海で活動していたら「尋常ならざる非常時」となります。
しかも、その軍隊が「最強の将兵」ならば、感覚的には15万名ほどの軍隊となります。
これでは、もはや恐慌状況となります。
賊軍を
叩き潰すのだ!
薩摩出身で、もともと西郷の同志・弟分であった大久保利通 内務卿。
戦場の指揮は山縣有朋たちでしたが、事実上、大久保が陣頭指揮を執って反乱軍鎮圧に乗り出しました。
この反乱は、未曾有の大戦争となります。
政府軍、西郷軍双方に多大な死傷者を出し、政府軍は6200名余りの死者を出します。
これは、
大変な事態だ・・・
大きな医療機関が
必要だ・・・
大勢の負傷者を出した為、治療する大病院が必要になります。
そして、大阪鎮台に巨大な臨時病院が創設されました。
大阪へ:未曾有の大戦争と多数の死傷者を前に
大阪鎮台の臨時病院の院長に就任したのは、軍医 石黒忠悳でした。
石黒は大学東校(東京帝国大学医学部の前身)で教鞭を執り、その高い能力を政府に買われたのです。
石黒院長の元で大勢の医師・看護師が集められ、8000名以上の負傷者が送られてきました。
日本の史上初の大規模な医療機関です。
ここに、大勢の医学の大家が集まりました。
俺も、医師として
国に尽くすのだ!
この状況を聞いた後藤。
愛知から大阪へ向かい、石黒院長に面会を申し込みます。
ここで、外科医として
奉仕したいのです!
気持ちは、
大変有難いが・・・
君は、
まだ正式な医師ではない。
医師免許に合格した後藤は、まだ免許がおりてなかったのです。
組織がしっかりしている軍では、無免許の医師を「医師として」は採用できません。
そこを
なんとか!
正式採用は難しいが、
臨時雇いならば・・・
それで
いいです!
医学の将来を考え続けた後藤新平青年:予防への目覚め
よしっ!
頑張るぞ!
「正式な医師ではない」ものの、医師として十分な能力を持つ後藤。
膨大な負傷者を前に、どんどん手術を行って、大勢の方を助けます。
ここで、大変な光景を目にした後藤。
こ、これは・・・
九州から負傷兵を船に乗せて、神戸港へやってきます。
九州では、当時コレラが大流行していました。
そして、負傷兵と共にコレラが大阪にも持ち込まれて、大変な惨状となります。
なんとか
しなければ!
ドイツの医師・細菌学者コッホが、コレラ菌を発見するのは1883年。
このコレラ菌が
コレラの原因です・・・
「コッホの発見」は西南戦争勃発の6年後であり、当時「不治の病」だったコレラ。
幼い頃に、戊辰戦争で大変な経験をした後藤。
1877年当時、コレラによる死者は日本全国で8,000名を超え、大変な事態となっていました。
コレラを
なんとかするのだ!
病気を
予防するのだ!
我が国には、その医学・科学の知識が
足りない!
ここで、医師として活躍しながら、医学の将来に関して考える後藤でした。
なんとか
しなければ!
俺が
なんとかして見せよう!
この「俺がなんとかして見せよう!」という精神こそが、後藤新平の真骨頂でした。