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後藤新平 11〜「賊」の苦しみ〜

前回は「後藤新平 10〜名藩から賊軍へ〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
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天皇

名藩だった仙台藩は、明治新政府から「朝敵」と扱われます。

朝敵・・・

「朝敵」というのは、天皇陛下・天朝に「敵する者」です。

もちろん、今の世の中ではないので、実感は湧きません。

今も天皇(陛下)はいらっしゃいますが、憲法上「象徴」とされています。

第126代天皇 徳仁(Wikipedia)

様々な考え方がありますが、日本国民から大いなる尊崇を受ける存在です。

戦前までは、天皇(陛下)は現代では想像できないほど絶大な、絶対的な存在でした。

朝敵へ

この「朝敵」という存在。

現代では想像できませんが、特に「天皇を尊崇する」立場の人間にとっては、「死の宣告」と同等かそれ以上でした。

明治維新は、「近代化を進めた薩長が圧勝した」と習います。

その一面はありますが、現実的には幕府軍もフランスの協力を得て、「近代化を猛推進」していたのでした。

しかし、あっさり徳川幕府が敗北に至った最大の理由は、将軍および徳川幕府の「朝敵」への指定でした。

第15代将軍 徳川 慶喜(Wikipedia)

優れた頭脳を持ち、当初はヤル気満々だった第15代将軍 徳川 慶喜。

私が朝敵?

そんな馬鹿な・・・

尊王意識の強い水戸藩出身の徳川慶喜にとって、「朝敵」に指定されたことは、「終わり」を意味しました。

もう終わりだ・・・

急転落:賊軍へ

朝敵となり、「賊軍」に正式に認定された奥羽列藩同盟に所属していた藩。

その藩に所属していた人間もまた、「朝敵」であり「賊軍」となります。

賊・・・?

私も賊なのか?

これは、「辛い」なんていうものではなかったでしょう。

「勝てば官軍」という言葉がありますが、まさに明治維新は「そのもの」でした。

「賊」という汚名を着せられた後藤新平は、武士の身分を剥奪されます。

私は武士でなくなったのか?

のちに、士族解体へと突き進む明治新政府。

戊辰戦争直後は、「まだ江戸時代の続き」であり、士農工商の身分制度が残っていました。

「武士」は、誉の高い立場だったのです。

まだ、11歳の小学校五年生くらいの後藤少年は、奈落の底に突き落とされます。

こんな辛いことはない・・・

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