前回は「後藤新平 4〜藩祖の存在〜」の話でした。

幕末の仙台藩:大きな岐路
薩摩藩とは別の意味で、「別格」だった仙台藩。
それだけに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩は、高い意識を持っていたに違いないでしょう。
しかし、その名家・名藩であった仙台藩は、幕末に大きな岐路を迎えます。
最有力の佐幕藩であった、会津藩松平家がすぐ隣にいる環境の中、会津藩と新政府の間の折衝役を務めます。

当時32万石を誇り、徳川一門であった会津藩と新政府の間を取りなす役となった理由。
それは、名家・名藩ゆえでした。
他の藩では「荷が重すぎる」事態でした。
そして、仙台藩の首脳が佐幕だったことも、大きく影響しました。
この頃10歳くらいだった後藤新平。

仙台藩はどうなるのだろうか・・・
今の小学校4~5年生で、物心ついて、分別もあります。
強気の後藤と言えども、不安な日々を送っていました。
会津松平藩
32万石の会津藩は、「松平」という「徳川家康の元の名前」を冠する大名です。
会津藩もまた「別格」の大名です。


元々は、三河を支配していた松平家に生まれた家康。
しかし、相次ぐ戦乱の中、松平家は急速に衰退します。
そして、東側の大勢力で駿河・遠江を支配する今川家に、事実上吸収されました。
徳川家康は、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長と戦った際、「今川軍の一員」でした。


「一員」というよりも、「今川軍の先陣」として、織田軍と戦っていたのです。
その時の名前は、「松平元康」です。



私は、松平元康だ!
「元康」の元の字は、今川義元から一字を拝領した名前でした。
「一字を拝領する」ことは「重んじられている」証拠ですが、当時、松平家は今川家に従属していました。
「重んじられている」とは言え、今川家の「家臣のような存在」だった松平元康。
桶狭間の戦いでは、今川家よりはるかに勢力が弱かった織田信長が、奇襲攻撃で今川義元を討ち取ります。


桶狭間の戦いの後、弔い合戦もしない後継者の息子・今川氏真と断交します。
そして、織田信長と同盟を結びます。



今川とは、
縁を切った!



その証に、「元康」の名前は改めなければ!
そして、「独立大名として新たな人生」を切り拓くにあたり、名前を変えたのです。



今後は、私の名前は徳川家康だ!
そして、松平元康から徳川家康へなったのでした。
とは言え、徳川幕府にとって神君・家康の旧姓であり、そもそもの実家である「松平」。
徳川幕府は、徳川家光の時代に異母弟・保科正之を「松平姓」に改めさせ、会津を任せます。


この「松平」を冠する特別な会津藩。
会津藩と新政府軍の間に入る立場の藩は、「伊達・仙台藩しかいない」のでした。
しかし、その交渉は、決裂してしまいます。
幕末の猛烈な「時代のうねり」に、巻き込まれてゆく仙台藩でした。