後藤新平 5〜揺れる仙台藩〜|仙台から

前回は「後藤新平 4〜藩祖の存在〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
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幕末の仙台藩:大きな岐路

薩摩藩とは別の意味で、「別格」だった仙台藩。

それだけに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩は、高い意識を持っていたに違いないでしょう。

しかし、その名家・名藩であった仙台藩は、幕末に大きな岐路を迎えます。

最有力の佐幕藩であった、会津藩松平家がすぐ隣にいる環境の中、会津藩と新政府の間の折衝役を務めます。

会津藩主 松平 容保(Wikipedia)

当時32万石を誇り、徳川一門であった会津藩と新政府の間を取りなす役となった理由。

それは、名家・名藩ゆえでした。

他の藩では「荷が重すぎる」事態でした。

そして、仙台藩の首脳が佐幕だったことも、大きく影響しました。

この頃10歳くらいだった後藤新平。

仙台藩はどうなるのだろうか・・・

今の小学校4~5年生で、物心ついて、分別もあります。

強気の後藤と言えども、不安な日々を送っていました。

会津松平藩

32万石の会津藩は、「松平」という「徳川家康の元の名前」を冠する大名です。

会津藩もまた「別格」の大名です。

徳川 家康(Wikipedia)

元々は、三河を支配していた松平家に生まれた家康。

しかし、相次ぐ戦乱の中、松平家は急速に衰退します。

そして、東側の大勢力で駿河・遠江を支配する今川家に、事実上吸収されました。

徳川家康は、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長と戦った際、「今川軍の一員」でした。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「一員」というよりも、「今川軍の先陣」として、織田軍と戦っていたのです。

その時の名前は、「松平元康」です。

私は、松平元康だ!

康」の元の字は、今川義から一字を拝領した名前でした。

「一字を拝領する」ことは「重んじられている」証拠ですが、当時、松平家は今川家に従属していました。

「重んじられている」とは言え、今川家の「家臣のような存在」だった松平元康。

桶狭間の戦いでは、今川家よりはるかに勢力が弱かった織田信長が、奇襲攻撃で今川義元を討ち取ります。

桶狭間の戦い(Wikipedia)

桶狭間の戦いの後、弔い合戦もしない後継者の息子・今川氏真と断交します。

そして、織田信長と同盟を結びます。

今川とは、
縁を切った!

その証に、「元康」の名前は改めなければ!

そして、「独立大名として新たな人生」を切り拓くにあたり、名前を変えたのです。

今後は、私の名前は徳川家康だ!

そして、松平元康から徳川家康へなったのでした。

とは言え、徳川幕府にとって神君・家康の旧姓であり、そもそもの実家である「松平」。

徳川幕府は、徳川家光の時代に異母弟・保科正之を「松平姓」に改めさせ、会津を任せます。

第三代将軍 徳川 家光(Wikipedia)

この「松平」を冠する特別な会津藩。

会津藩と新政府軍の間に入る立場の藩は、「伊達・仙台藩しかいない」のでした。

しかし、その交渉は、決裂してしまいます。

幕末の猛烈な「時代のうねり」に、巻き込まれてゆく仙台藩でした。

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