前回は「江戸から東京へ 12〜関東の河川・武田信玄の遺産・秀吉と家康・関東平野〜」の話でした。
河川の氾濫に悩む信玄

「信玄堤」という堤防を築いたことで有名な武田信玄。

甲斐の国は、
山ばかりの国だ・・・



平地が少なく、
急な河川が多い・・・



そして、その急な河川が
氾濫を起こすのが多すぎる・・・



なんとか
しなければ・・・
元々は甲斐守護である名門武田家を次いだ信玄(晴信)は、父・信虎の代に甲斐を統一します。
信長や家康のように「城主とはいえ弱小勢力」とは異なり、「最初から一国の主」だった信玄。
信長の織田家は尾張守護でも何でもなく、まして「守護代ですらない」家柄でした。
信長の家は「尾張守護代の織田家」の「三人の家老の一人」の家柄だったのです。
つまり、守護・武田信玄にとっては、守護代ですらない信長は、格が二段ほど落ちます。





確かに
我が織田は、守護でも守護代でもない。



それがどうした?



守護などという権威は
とうの昔に落ちているのだ!
守護・守護代と戦国大名


信長の父・信秀は、軍事的才能・政治的才能に非常に優れた人物でした。
信秀の代に、先進地域であった尾張において、津島湊(港)などをもつ地域を押さえて躍進します。
まずは、「経済力を確保」した信秀。
信長より13歳年上の信玄(晴信)。
「尾張の一部の領主」である信長と異なり「甲斐一国」を最初から持ちます。



私は
守護だ!
信長と異なり、「歴史的権威が好き」だった信玄。



私は、過去の権威を
大事にする!
それは、自分がもともと「過去の権威において上位者」の生まれであることも大きな要素でした。
元々守護・守護代だった大名と、織田信秀・信長のように「実力での仕上がった」大名は違います。
後者を区別するために、「戦国大名」という名称が生まれました。
元々「守護大名」であった武田信玄は、「守護大名から戦国大名化した」ともいえます。
尾張と甲斐
「尾張の一部」を領する信長と「甲斐一国全土」を治める信玄。
面積では、尾張と甲斐は同じくらいです。
はるかに信玄の方が「恵まれた立場」であるように思われますが、実態は異なりました。


上の図は秀吉の時代における太閤検地での各国の石高です。
「石高」というのは、お米の収穫量を示します。
よく、「百万石の加賀」と言ったりしますが、江戸時代も石高でお米の収穫量を示していました。
今はm(メートル)、g(グラム)、L(リットル)などで長さ・量を測ります。
昔は尺貫法と呼ばれる単位がありました。
一升:約1.8L(お酒の一升瓶など)
一斗:十升
一石:十斗(=百升=約180L)
この「石」がお米の量の基本であり、収穫量の基準となります。
お米の量はたくさんあった方が、たくさんの方が生活できるので、全ての基本となります。
秀吉の時代なので少し後ですが、甲斐は約22万石、尾張は約57万石です。
つまり、尾張のお米の収穫量は甲斐の約2.6倍になります。
この違いは非常に大きいです。
最初は「尾張の1/3ほどの領土しか持たなかった」信長。
お米の収穫量は「尾張の1/3が、甲斐全土より少し少ないくらい」です。
そして、尾張は京・山城に近く、甲斐よりもはるかに商工業が盛んな地域でした。


お米の収穫量と商業の先進性を考慮すると、だいたい「尾張の1/3」=「甲斐一国全土」になります。
商業が盛んな尾張は、大きな経済力がありました。
そのため、「尾張1/3」の方が「甲斐一国全土」よりも国としての力はあったかもしれません。
このように、甲斐守護だった信玄でしたが、それほど恵まれた立場ではありませんでした。
武田信玄と信玄堤



氾濫する
河川に堤防を築く!



そして、住民が過ごしやすい
国を作るのだ!



河川をしっかり整備すれば、
お米の収穫量も上がる!
そう心に決めた信玄。


長い時間と莫大な費用をかけて、河川に堤防を築き、釜無川などの川の治水に大きな成果を挙げます。



時間も費用も
かかったが・・・



これで、甲斐の国の
力はさらに強くなったぞ!
そして、長年にわたり武田家・武田信玄・武田勝頼に苦しめられた家康は、そこに気づきます。





信玄公の
真似をしよう!
「とても大事なこと」に気づいた家康でした。