前回は「江戸から東京へ 13〜武田信玄の治水術・信玄堤・石高・織田信長・守護・戦国大名〜」の話でした。
インフラと河川
今年の中学受験で東京周辺の河川の問題が出題されました。
最重要インフラの一つである上下水道。
江戸時代においても、地下に水路が張り巡らされている地域がありました。
関東平野が広がる東京。
武田信玄の本拠地や甲斐・信濃などの山国と比較すると、「フラットな地形」です。
「フラットな地形」の印象のある東京ですが、実は結構高低差が激しいのです。
インフラを設置することを考えてみましょう。
「電気の配線をする」のと、「上水・下水の配管」をすることの違いはなんでしょう。
電気の
配線の方が細い感じかな・・・
下水管は
結構太そう・・・
太さの違いはありそうですが、他に違いはないでしょうか。
「流れ」に注目してみましょう。
電流は、
電圧をかけて流すんだよね。
水の場合は・・・
あっ、傾いていないと
流れない!
そうだね!
「水を流す」には、基本的に傾き(勾配)がないと「流れない」のです。
ポンプ等で「機械的に流す」ことは可能ですが、「全てポンプで流す」わけにもいきません。
そこで、上下水道のインフラでは「傾き」が確保されるように設計されています。
江戸の大改造開始
豊臣秀吉・徳川家康・武田信玄たちが登場して、江戸から東京の移り変わりの話をしています。
今回は、少し番外編で歴史的な話をおいて、河川の変遷を概観しましょう。

現在の皇居付近まで侵入していた、大きな「日比谷入江」があった江戸。

家康は、まず東に「小名木川」という河川を作りました。
これは「行徳で生産されていた塩」を「江戸に直送するため」でした。
この点に関して、歴史的流れを考えると少し異なる視点もあるので、それは別の機会にご紹介します。

関ヶ原の合戦で大勝利した家康は、一気に「江戸の大改造」に乗り出しました。


これで、
徳川の天下だ!
一気に日比谷入江を埋め立て、日本橋川(神田川)の流れを東に移動させ、隅田川に合流させました。
さらに大きな溜池が作られています。
現代、赤坂付近の「溜池山王」は、この溜池の名残の名称です。
数多くの企業がある高級な地域の「溜池山王」。
かつては、文字通り「溜池」だったのです。
江戸の発展と堀割


上の図は、1620年ごろの江戸です。
1615年の「大坂の陣」により、徳川が豊臣を滅亡させ、徳川の天下が確定した勢いがあります。
江戸城の大幅な工事が進行し、大きく内堀が作られました。
そして、現代の銀座付近に多数の堀割(小さな河川」が作られました。


1639年頃の江戸となり、急速に江戸の街・都市が形成されているのが分かります。
江戸城の外堀が大きく作られ、さまざまな河川・水路が構築されました。
この「河川・水路」は、「水の街・都市」を作るという意志もあったかもしれません。
多くは、急速に増大してきた江戸の人口に対して、物流を確保するためでした。
江戸時代は、現代とは比較にならないほど「水路における物流が重要」だったのです。
この1639年頃で、江戸の「新しい都市としての骨格」は、ほぼ完成しました。
現代の東京と都市・街づくり
家康が入府してから、ちょうど50年ほど。
非常に急速なピッチで、江戸の都市づくりは実行されたのです。
この後、江戸時代において、様々な上下水道の発展などがあり、明治維新を迎えます。
明治維新以降は、特に東京湾への埋め立てが行われました。
特に、戦後の高度急成長時代には、東京湾埋め立てが非常な速さで進められました。


そして、現代の東京に至ります。
かつてあった「河川・水路」のほとんどは姿を消してしまいました。
「水の街」江戸は消滅し、現代の東京へと大きく変化したのでした。
多くの河川は「暗渠」と呼ばれる、地面の下の水路となりました。
江戸時代には家康〜家光の頃に、大きく進んだ江戸の都市改造。





私は生まれながらの
将軍であるぞ!
50年という時間で、猛烈な勢いで変化を遂げた江戸。
そして、戦後の高度成長期40~50年ほどで、大きく東京湾に伸びていった東京。
London,Paris, New York, Berlinなどの世界の大都市も、様々な変化を遂げてきました。
歴史の浅いNew Yorkは別として、Londonなどの世界の大都市と比較して、大きな変化を遂げた江戸・東京。
河川の歴史・現代の都市構造・上下水道などにも、様々なストーリーがあります。