日本の中心から大きく離れた徳川家〜家康を「端=関東に追いやった」秀吉・関東平野の展望・河川・治水工事に悩む家康・武田と徳川〜|江戸から東京へ12

前回は「義兄弟となった秀吉と家康〜秀吉の「義弟」となった家康・峻烈な戦国の世の苦しみ・秀吉と家康の「合戦ではない戦い」〜」の話でした。

目次

家康を「端=関東に追いやった」秀吉

戦国大名 徳川 家康(Wikipedia)

形式的とはいえ、遂に秀吉の家臣となった家康。

徳川家の父祖伝来の土地から離れることになります。

長年、河原に小石を
積み上げるように・・・

大事に大事に保有して、
拡大してきた・・・

三河・遠江・駿河・
甲斐・信濃の我が領土・・・

天下人 豊臣 秀吉(Wikipedia)

家康殿とは
義兄弟だのう!

ははは・・・

もはや苦笑いするしかありません。

秀吉としては、

確かに徳川殿は、もともと
我が主人・信長様の同盟者・・・

信長様の重臣とだったとはいえ、
私の目上の存在。

だが、
今、私は天下人なのだ!!!

こういう気持ちだったでしょう。

こうして「秀吉のお願い」という形式もあり、秀吉の義弟兼家臣となった家康。

すでに、お互い知り合ってから30年近くが経過しています。

二人には、他の人間には分からない「長い長い歴史」があります。

仕方ない・・・

鳴くまで
待とう・・・

関東の後北条氏を討伐して天下統一した1590年には、秀吉は54歳、家康は50歳。

「天下の秀吉と家康が義兄弟」となり、そのプロセスの中で、

家康殿は
関東・江戸へどうぞ。

となったのでした。

天下人・秀吉としては、

これまでは、
散々こちらが下手に出てやったんだ!

そのツケは
払ってもらう!

という気持ちであったでしょう。

仕方ない・・・

日本の中心から大きく離れた徳川家:関東平野の展望

京都が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

いくら「150万石から250万石へ100万石アップ」と言っても、中央から非常に遠くなります。

関東・江戸へ入国する前に、家臣に関東・江戸のことを調べさせる家康。

北条家の領土であった
関東周辺を調べよ!

現代のように多数の資料やネットで情報が溢れている時代とは全然違う当時。

1590年ごろの江戸(新教育紀行)

情報が非常に少ない時代は、情報は非常に重要でした。

出来るだけ
詳しく調査せよ!

はっ!

新たな我が領土の
姿をつぶさに知りたい!

入国前に新しい自分の領国を、詳細に調べさせます。

そして、

家康様!
報告です!

関東は広大な平野が
広がっており、将来性が高いです。

家康のいた駿河・遠江・三河地方よりも、遥かに広大な平野が広がっている関東平野。

うむ!

それは
いいぞ!

それで、
江戸は?

江戸は
漁村として栄えていますが・・・

川が多くて、
ほとんどが湿地帯です。

そうか・・・

少しテンションが下がる家康。

関東地方の河川を
なんとかすれば、発展しそうですが・・・

河川を工事するノウハウは
当家(徳川家)にはありません・・・

うむ・・・

秀吉と違い、築城にさほど興味がなかった家康。

戦国大名の習いとして、一定の築城術は徳川家にもあります。

信長殿や秀吉のような
きらびやかな城ではないが・・・

我が徳川も城や砦は、
これまでもいくつか築城してきた・・・

そして、
江戸城は城というより、砦のような感じです。

我が徳川の拠点とするには、
かなり手を入れる必要がありそうです。

まあ、それなりの防御力が
あればよいわ。

上方(京都周辺)のような
環境ではないから・・・

別に豪華絢爛たる城が
欲しいとは思わん・・・

河川・治水工事に悩む家康:武田と徳川

安土城址 羽柴(豊臣)秀吉邸宅址(新教育紀行)

別に織田殿のように、
豪華絢爛たる城をつくりたいとは思わん・・・

というか、
「豪華」は私のキャラではない・・・

「豪華な城」には、さして興味がない家康。

新たな国づくりをしようと意気込みます。

河川をなんとかしたら、
関東は発展しそうだのう・・・

平地を開墾すれば、
米の収穫が増えて、人口も増える!

築城が建築工事であるのに対して、河川工事は土木工事です。

工事のやりかたやスケールが全然異なります。

だが・・・

川のう・・・

川の工事は、
あまりしたことがないのう・・・

困る家康。

川の工事は
大変そうだのう・・・

誰か、
川の工事に自信があるものはおるか?

徳川四天王:左上から時計回りに酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政 (Wikipedia)

いえ・・・

あの・・・

屈強の武闘派家臣団で、極めて評価の徳川家の家臣たち。

野戦ならば天下無敵の自信があります。

三河も遠江も
水といえば海だったのう・・・

武田四天王:左上から時計回りに山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)、内藤昌豊、馬場信春 (歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

三河・遠江にも
河川はあったが・・・

武田に圧迫されて続けていて、
治水工事どころではなかった・・・

長年、徳川家にとっては「猛獣のような」恐ろしい存在だった武田家。

そして、その猛獣軍団・武田家を統率していた武田信玄亡き後、武田勝頼からも徳川家は猛攻を受けます。

戦国大名 武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

行け行け!
徳川を倒せ!

後年、「愚将」と表現されることの多い武田勝頼ですが、第一級の猛将でした。

勝頼時代、武田家は信玄を上回る領土(版図)となります。

勝頼も
強敵だった・・・

その勝頼を同盟者・織田信長と共に滅ぼしました。

本能寺の変(Wikipedia)

その直後に本能寺の変勃発に至ります。

混乱に乗じ、
奪取した武田家の領土の甲斐と信濃。

武田信玄公の
領土を得たが・・・

甲斐も信濃も
山ばかりであったのう・・・

ここで、家康の頭が閃きます。

そうだ!

河川工事なら、
あの方の得意技ではないか!

戦国大名 武田 信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
新教育紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次