日本の憲法と天皇の存在〜十七条憲法は憲法ではないのか・大日本帝国憲法と明治天皇・黒田清隆総理大臣+伊藤博文枢密院議長・日本国憲法と昭和天皇・吉田茂総理大臣とGHQの闘い〜|日本の憲法2・中学受験

前回は「日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いとポイント〜大日本帝国憲法制定の時代・明治維新の立役者たちの悲願・大日本帝国憲法の天皇=大元帥〜」の話でした。

目次

日本の憲法と天皇の存在:十七条憲法は憲法ではないのか

新教育紀行
大日本帝国憲法(Wikipedia)

1889年に公布され、1890年に施行された大日本帝国憲法。

日本にとって「最初の憲法」でした。

そもそも「憲法とは何か」を確認しましょう。

憲法

・国家の統治権・統治手法に関する根本的な基礎的法律

・国家が国内の国民・人民、諸外国に対して行使する権限の基本原則

いわば「国家の基本」とも言える憲法ですが、日本では古くには聖徳太子の十七条憲法があります。

新教育紀行
聖徳太子(Wikipedia)

日本書紀に「推古天皇の604年に制定された」と記載がある十七条憲法。

もう1500年以上も昔に制定され「十七条憲法」と呼ばれていますが、「日本初の憲法ではない」です。

十七条憲法

一.和を大切にしなさい。(仲良くしなさい)

二.仏教を信仰しなさい。

三.天皇の命令には従いなさい。

八.官僚(当時は官僚・役人中心主義)は一生懸命仕事をしなさい。

十七.大事なことはみんなで相談して決め、一人で勝手に決めてはならない。

17もの「定め」がありますが、この十七条憲法に記載されていることは「掟」のようなことでした。

対して、現代「憲法」と呼んでいる法律は「国家の統治権」などを規定する法令です。

みんなでしっかりした
国づくりをしましょう!

と聖徳太子が「呼びかけている」ような掟であるのが十七条憲法です。

そのため、「十七条憲法は憲法ではない」という判断になります。

それにしても、1500年も昔に定めたにしては、十七条憲法はしっかりしているのは事実です。

その後、鎌倉幕府の御成敗式目など、「ある程度の規範・法令」は定めてきました。

ところが、主に欧米初の「憲法」という概念とは異なるのが「日本の規範・法令」でした。

憲法に関する問題

・日本では1890年に施行された大日本帝国憲法が「最初の憲法」と言われています。過去に聖徳太子の十七条憲法などがありますが、なぜ大日本帝国憲法が「最初」なのでしょうか。

このような出題も考えられます。

このような出題があるとしても、突然「問題のみ」ということはなく、必ず「文章とセット」となります。

それは、憲法に関しては様々な解釈があるため「出題者の考え」をもとに出題することになるからです。

「憲法に関する問題」にも対応できるように、日本国憲法・大日本帝国憲法ほかの法令も復習しましょう。

上の「憲法に関する問題」の解答例は下記になります。

憲法に関する問題:解答例(一例)

・十七条憲法等、大日本帝国憲法以前の日本国内で実施・発令された法律は、掟や決まりごとの要素が強く、憲法で最も重要な「国家の統治権」などが規定されていないため。

大日本帝国憲法と明治天皇:黒田清隆総理大臣+伊藤博文枢密院議長

新教育紀行
大日本帝国憲法(Wikipedia)

大日本帝国憲法と現行の日本国憲法の大きな違いは下記です。

大日本帝国憲法日本国憲法
公布1889年(戦前・明治時代)1946年(戦後・昭和時代)
主権天皇国民
天皇神聖不可侵の元首日本国民統合の象徴
戦争天皇が陸海軍を率いる戦争を放棄
軍隊国民に兵役義務交戦権否定
日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違い

まずは、具体的な憲法の公布の文章を見てみましょう。

新教育紀行
明治天皇(国立国会図書館)

上のように、大日本帝国憲法は冒頭から天皇の話が続きます。

朕、祖宗ノ遺烈ヲ承ケ
萬世一系ノ帝位ヲ・・・

こうして始まって、「私、天皇とは」と説明します。

そして、

親愛スル所ノ
臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ・・・

と続きます。

ここで重要な言葉は、「臣民」です。

つまり、国民は「臣民」であり「天皇の臣下」であるということになります。

いわば、日本国内の国民は「全員が天皇陛下の家」ということになります。

大日本帝国憲法

・主権は天皇であり、国民は「臣民」

これは、かなり極端な発想で、現代では考えられないことです。

新教育紀行
大日本帝国憲法(Wikipedia)

内閣総理大臣黒田清隆以下が署名していますが、事実上No.1の伊藤博文は二番目です。

新教育紀行
初代内閣総理大臣 伊藤博文(Wikipedia)

私が事実上全部まとめたから、
最初に署名したいが・・・

まあ、華は内閣総理大臣である
黒田に譲ってやろう・・・

伊藤は、こんな気持ちだったでしょう。

新教育紀行
第二代内閣総理大臣 黒田清隆(Wikipedia)

伊藤さん、
私に任せて下さい!

長州閥ながら薩摩閥とも良好な関係であった伊藤は、薩摩の黒田に内閣総理大臣を譲っていました。

大日本帝国憲法に関する問題

・大日本帝国憲法公布時の内閣総理大臣を答えて下さい。

この問題は「伊藤博文」と答えてしまいそうですが、正しい答えは「黒田清隆」です。

少し「引っ掛け問題」な感じもしますが、伊藤は枢密院議長となっていました。

第二次内閣総理大臣である黒田内閣は、伊藤内閣を「引き継いだ」形でした。

大日本帝国憲法公布が間近となった頃、伊藤は、

黒田よ、私は
枢密院議長となってまとめるから、内閣を頼む!

分かりました!
お任せを!

こうして内閣を組閣した黒田総理は、他の大臣は全て「伊藤内閣のまま」としました。

ただ、自分が伊藤内閣で農商務大臣だったので、代わりの方を任命する必要がありました。

大臣を変える必要はないから、
私が大臣だった農商務大臣は・・・

新教育紀行
幕臣・農商務大臣 榎本武揚(Wikipedia)

榎本!
頼んだぞ!

農商務大臣は
私にお任せを!

黒田清隆と榎本武揚は「盟友」という関係で、非常に仲が良かったのでした。

幕末に、徳川幕府の軍艦と軍隊を連れてゆき北海道の五稜郭に篭って新政府軍に反抗した榎本。

新政府など
認めん!

私は蝦夷(北海道)に
新たな国家を樹立する!

そして、新政府軍と戦ったものの敗北した榎本。

オランダに留学経験がある榎本は極めて優秀で、海軍軍人としてのみならず、数学や物理も得意でした。

榎本は
敵将だから、処刑せよ!

こういう声に対して、黒田清隆は、

榎本は国の宝だから、
助命して、役立ってもらおう!

私は頭を丸めるから、
頼む!頼む!頼む!

榎本を極めて高く評価していた黒田。

黒田は丸坊主になって方々駆け回って政治力を駆使し、なんとか榎本を助命しました。

この点では「黒田内閣」と言っても、「伊藤+黒田内閣」のような実態でした。

明治天皇

・憲法がない→大日本帝国憲法

憲法がなかった日本(大日本帝国)は、大きな一歩を踏み出しました。

日本国憲法と昭和天皇:吉田茂総理大臣とGHQの闘い

新教育紀行
日本国憲法(Wikipedia)

現行の日本国憲法の前文は、上のように始まります。

新教育紀行
昭和天皇(Wikipedia)

朕は、日本国民の総意に
基づいて・・・

大日本帝国憲法の時と大きく異なり、「朕は」のすぐ後に「日本国民」が登場します。

天皇の説明等が一切なく、「日本国民の総意に基づく」とはっきりと明記しています。

日本国憲法

・主権は国民であり、天皇は「日本国民の総意に基づく」存在

戦前まで「全国民が天皇の臣民(家臣)」であったのが、逆転したような状況です。

日本国民としては、現在も天皇(陛下)という存在は「はるか上」のように感じられます。

ところが、憲法上は「日本国民の総意に基づく」と記載されている点がポイントです。

もう一つポイントがあり、

帝国憲法の改正を裁可し、
ここにこれを公布せしめる。

と、「過去の大日本帝国憲法を改正」と記載されています。

大日本帝国憲法と日本国憲法は「別の憲法」ですが、手続き上は「改正」となっています。

新教育紀行
日本国憲法(Wikipedia)

ここでも内閣総理大臣であった吉田茂が筆頭で署名しています。

大日本帝国憲法の際に存在した枢密院は、「天皇の諮問機関」でありました。

天皇の権限を限定し、内閣に一元化するためもあり、枢密院は日本国憲法施行に伴い廃止となりました。

新教育紀行
日本国憲法(Wikipedia)

大日本帝国憲法と比較すると、日本国憲法の公布の文章は非常に簡潔です。

新教育紀行
吉田茂 第45,48,49,50,51代内閣総理大臣(Wikipedia)

GHQとの折衝は
困難を極めたが・・・

・・・・・

新教育紀行
白洲次郎 終戦連絡中央事務局参与(Wikipedia)

英国に留学し、英語が極めて堪能で、吉田首相と共に憲法成立に尽力した白洲次郎 終戦連絡中央事務局参与。

Japaneseは
俺たちの言うことを聞いていればいいんだ!

何言ってんだ!
私たちは主張すべきことは主張する!

なんだと?
俺たちに反論するJapaneseが存在するのか・・・

Shirasu(白洲)は他のJapaneseとは
全然違うな・・・

我々は、
戦争であなた方に敗北したが・・・

我々は、あなた方の奴隷に
なったのではないのだ!

他のJapaneseなら
こちらの恫喝に、すぐ怯えるのだが・・・

Shirasu(白洲)は「従順ならざる
唯一の日本人」だ・・・

とにかく、とにかく
大変な日々だった・・・

ほとんど、GHQとの
「闘い」に近い日々だったが・・・

昨年(1945年)の敗戦以来、
新生日本の軸がやっと出来た・・・

昭和天皇

・大日本帝国憲法→日本国憲法

全く異なる憲法の元において、昭和天皇は「日本国の主権者から象徴へ」と変わりました。

日本国憲法
公布1946年(戦後・昭和時代)
主権国民
天皇日本国民統合の象徴
戦争戦争を放棄
軍隊交戦権否定
日本国憲法

こうして、現在の日本国の原型が完成したのが1946年でした。

当時、日本は米国の統治下にあり、独立するのはこれから5年後の1951年のこと。

それ以来、日本国憲法は「ただの一文字も改正されず」現在に至っています。

新教育紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次