年号並び替えの問題・対策・コツ 1〜鎌倉幕府の成立過程・平氏から源氏へ・歴史における幕府・幕府と源氏・幕府成立時期・江戸・徳川幕府の成立と権力・島津家の勢い・徳川幕府と豊臣家・強力な潜在力持つ豊臣〜|中学受験・社会

前回は「年号並び替え・記述問題 3〜流れを理解・年号は出来るだけ覚える姿勢・版籍奉還・江戸時代と明治時代の違い・廃藩置県・大名から華族へ版籍奉還と廃藩置県の違い・自分の言葉で簡潔に〜」の話でした。

目次

社会 問題 2:鎌倉幕府の成立過程

年号並び替えと説明の問題 2を考えてみましょう。

鎌倉幕府成立期の出来事に関する、年号並び替えと説明の問題です。

比較的基本的な問題ではありますが、(2)の「守護と地頭の役割」も、しっかり理解しておきましょう。

平氏から源氏へ:歴史における幕府

鎌倉幕府初代将軍:源頼朝(Wikipedia)

日本の歴史の重大なキーワードである「幕府」という言葉。

歴史上、幕府の数はどのくらいあるでしょうか。

それは、鎌倉幕府・室町幕府・
江戸幕府の三つだね。

考えてみたら、
三つしかないんだね!

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の三つに分けられ、それぞれ、源氏・足利氏・徳川氏が支配しました。

その支配の形態は「征夷大将軍となって、幕府を開き、諸大名の頂点に立つ武家政権」でした。

実は、「幕府」という言葉自体は、近代になって使われた言葉で、江戸時代までは「なかった」説があります。

えっ?
それでは、何と読んでいたの?

徳川将軍家は、「大公議(おおこうぎ)」または「大樹(たいじゅ)」と呼ばれていました。

それぞれ「大」という字があり、「敬われていた存在」であることが名称に現れています。

そもそも、最初に「幕府の組織」を確立した源頼朝。

足利尊氏・徳川家康は、「源頼朝に倣って幕府を組織」したとも言えます。

私が、日本歴史上
幕府を初めて作ったんだぞ!

幕府と源氏:幕府成立時期

室町幕府初代将軍:足利尊氏(Wikipedia)

昔は「幕府」という言葉がなかった説がありますが、ここでは「幕府」で通します。

それぞれの幕府の存在期間を確認しましょう。

幕府の存在期間

・鎌倉幕府:1192年(1185年)〜1333年

・室町幕府:1338年(1336年)〜1573年

・江戸幕府:1603年〜1867年

この中で、鎌倉幕府・室町幕府の成立時に年号が二つあることは、一つのポイントです。

それは、幕府成立時期に対して、下記の二つが考えられるからです。

鎌倉幕府の成立時期

源頼朝が「権力を握った時点」か「征夷大将軍となった時点」か。

・源頼朝が守護・地頭を設置:1185年

・源頼朝が征夷大将軍就任:1192年

室町幕府の成立時期

足利尊氏が「権力を握った時点」か「征夷大将軍となった時点」か。

・足利尊氏が楠木正成破り、後醍醐天皇が比叡山退去:1136年

・足利尊氏が征夷大将軍就任:1138年

このように、幕府成立時期には「何をもって幕府成立とみなすか」で変わります。

江戸時代だけが、
幕府成立時期が明確なのね!

基本的に、江戸幕府は成立時期が1603年ですが、これも同様に考えると微妙な点があります。

江戸幕府の成立時期

徳川家康が「権力を握った時点」か「征夷大将軍となった時点」か。

・徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利:1600年

・徳川家康が征夷大将軍就任:1603年

・徳川家康・秀忠が豊臣家を滅ぼす:1615年

成立が明確だと思った
江戸時代は、3つあるの?

これは、「歴史に対する考え方」次第ですが、「徳川家が権力掌握」に対する認識によると思います。

江戸・徳川幕府の成立と権力:島津家の勢い

戦国大名 徳川 家康(Wikipedia)

関ヶ原の戦いで、石田三成ら西軍を倒し、「敵を一掃した」とも言える徳川家康。

いよいよ、俺の
天下だぞ!

実態としては、この時点では島津家などが「反抗的態度」を取り続けていました。

戦国大名 島津義弘(Wikipedia)

なぜ、我が島津が徳川に
従わなければならない?

我が島津を従わせたければ、
弓矢で来い!

こやつら・・・

幕末に徳川幕府を倒す原動力となった薩摩藩・島津家。

それは、「幕末に突然、強力な倒幕(討幕)勢力となった」のでは、ありませんでした。

関ヶ原の戦いに「1,500名ほど」という「大勢力にも関わらず、少人数で戦った」島津。

この理由は、文禄・慶長の役と島津家の有力家臣の反乱などで、疲弊していたことでした。

関ヶ原では、
お前たちに負けたかもしれんが・・・

我が島津の領土を
削るなど、もってのほか!

まだ島津の本拠地には、
多数の武士がいるのだ!

島津を
滅ぼすかないか・・・

今、島津を消しておかねば、
後に禍根を残す・・・

対して、島津家は領土を城塞化して、「合戦・戦争準備万端」となりました。

ところが、徳川家もそれほど安定感があるわけではありません。

まだ、豊臣家も
残っており、島津は超強い・・・

この時点、徳川家康と「野戦の戦闘力が互角」である数少ない人物の一人が、島津義弘でした。

そして、「家としての軍事力」はピカイチの島津。

徳川家といえども、

島津か・・・

やむを得ん。
島津の領土は削らないから、上手くやろう・・・

よかよか!
ならば、我が島津は、無闇に敵対はしない!

結果的に、この時の「後に禍根を残す」懸念が現実となったのが、明治維新でした。

薩摩藩出身の政治家・軍人:左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、桐野利秋(Wikipedia)

徳川幕府と豊臣家:強力な潜在力持つ豊臣

右大臣 豊臣秀頼(Wikipedia)

1600年の関ヶ原の合戦は、後世から見ると「明確に豊臣に敵対する徳川家康」です。

ところが、当時、徳川家康の立場は形式的には「豊臣家の家臣」でした。

秀頼様の家臣である
この家康が、敵を倒します!

家康殿。
頼みますぞ・・・

そもそも、徳川家康は関ヶ原合戦の前哨戦となる「上杉討伐」において、

徳川殿。
このお金をお使いください。

はは〜!

と秀頼から「軍事作戦に必要なお金」を頂戴している立場。

ところが、関ヶ原合戦の勝利ののち、石田三成たちを罰する過程で、

どさくさに紛れて、
豊臣家の力を削ごう!

と考えた家康。

豊臣家の収入源である「220万石ほどのお米」を「直轄地の65万石のお米」に減らしました。

つまり、石高としては豊臣家は「1/3以下」となったのです。

これを「家康が、一体どのような権力で実行出来たのか」が不明です。

何と言っても「豊臣秀頼の家臣」の分際の家康が、なぜ「主人の石高を削れたのか」が不明です。

太閤 豊臣秀吉(Wikipedia)

我が豊臣家の力の源泉は、
莫大な経済力にある!

戦国時代において、最も先端的な経済的思考を持っていた秀吉。

お金さえ握っていれば、
権力は保持できる!

と考えており、「豊臣家の所領が減らされた」とはいえ、莫大な金銀は残っていました。

さらに、「経済力の源泉」は保有し続けた豊臣家。

当時の江戸は、現代の東京とは大きく異なり「一地方都市」に過ぎません。

関ヶ原合戦後、「徳川家が最強」になったものの、江戸よりも大坂(大阪)・京の方が大都市でした。

そして、様々なものの流通もまた「大坂・京中心」の時代。

我が徳川が征夷大将軍に
なったところで、豊臣家は「目の上のたんこぶ」だ・・・

豊臣は、もはや世を納める力がないので、
公家になって生き残っては?

形だけでも、豊臣は徳川に
従ってもらいたい・・・

そうでなければ、
世がまとまらない・・・

家康なりに、一生懸命考えた上での「新たな時代への提案」でした。

この頃、「独裁者」ではなくても、圧倒的な力を持つ最高権力者の徳川家康。

ところが、この「圧倒的最高権力者」家康の提案に「激怒した」人物が一人。

そもそも、この時代に「家康に表立って激怒出来る人物」は、この方しかいませんでした。

太閤・豊臣秀吉の妻 淀殿・茶々(Wikipedia)

はっ?
私の息子・秀頼が家康の家臣?

ちょっと待って!
私を誰だと思っているの?

私は、織田信長の
妹・市の娘で、秀吉の妻!

家康!
お前は我が母の兄・信長の家臣同然だったでしょう!

それを・・・・・
それを・・・・・

何を考えて、
そんなことが口にできるの!

「母の兄が信長、夫は秀吉」という家康の「目上の人物が二人」もいる淀殿。

そして、「天下一の美人」の誉れも高かった淀殿。

プライドの高さは天下一品であり、彼女以上のプライドを持つ人物は当時いなかったでしょう。

もはや、
時代が変わったのだ・・・

右府様(信長)が死んで、
もう30年あまり・・・

我が豊臣が徳川の下など、
絶対に嫌!

やむを・・・
やむを得ないな・・・

こうして、1614年・1615年の大坂(当時は大を大と表記)の陣となり、豊臣家滅亡に至りました。

この意味では、「徳川家中心の徳川幕府成立は、1615年」とも考えられます。

新教育紀行

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