年号並び替えの問題・対策・コツ 2〜源平の戦い・知らない出来事がある時・前後関係から推測・木曾義仲と源義経の登場・一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦い・仲違いする頼朝と義経・守護と地頭・落ち着いて前後関係から推測・流れと出来事〜|中学受験・社会

前回は「年号並び替えの問題・対策・コツ 1〜鎌倉幕府の成立過程・平氏から源氏へ・歴史における幕府・幕府と源氏・幕府成立時期・江戸・徳川幕府の成立と権力・島津家の勢い・徳川幕府と豊臣家・強力な潜在力持つ豊臣〜」の話でした。

目次

社会 問題 2(再掲載):源平の戦い・鎌倉幕府の成立過程

源平の戦いから、鎌倉幕府成立にかける時代の確認です。

まずは、(1)から順に確認しましょう。

年号は覚えている方もいらっしゃると思いますが、「全て」は難しいでしょう。

鎌倉幕府成立に関する出来事の年号

・壇ノ浦の戦い:1185年

・一ノ谷の戦い:1184年

・源頼朝の征夷大将軍就任:1192年

・守護と地頭設置:1185年

「イ:一ノ谷の戦い」は、比較的難しいです。

同じ年号が
あるけど・・・

「壇ノ浦の戦い」と
「守護・地頭設置」は同じ年だから、並び替えは出来ないけど・・・

「同じ年」の出来事に関しては、中学受験では出題されないと思います。

この「同じ年号がある、少し特殊な問題」を例に、歴史は「流れが大事」であることを考えましょう。

知らない出来事がある時:前後関係から推測

太政大臣 平清盛(Wikipedia)

まずは、「壇ノ浦の戦い」「一ノ谷の戦い」から確認します。

その少し前の、平家全盛期の時を復習しましょう。

源氏を叩き潰して「平家の世」を作り上げた太政大臣 平清盛。

清盛の前に、幼き頃の源頼朝が連れられてきます。

源氏の
後継者か・・・

禍根を残してはならん!
殺せ!

戦った相手の首領の後継者は、殺して「この世から消す」のが常です。

清盛!
まだ、小さな子ではないですか!

ここで割って入ったのは、平清盛の母親でした。

こんな小さな子に、
一体何が出来るんです!

しかし・・・
源氏の棟梁ですぞ!

生かしてあげて、
遠方に流せば良いでしょう!

はっ・・・

後で平家に刃向かって
来なければ良いが・・・

嫌々、母親の忠告に従って、源氏の嫡男だった頼朝を伊豆に流します。

この時、清盛の「嫌な予感」は後に的中することになりました。

鎌倉幕府初代将軍:源頼朝(Wikipedia)

京から、
田舎の伊豆に流されたけど・・・

京都に比べると、
関東って、広い平野が広がる田舎だけど・・・

関東は、元々は
源氏の発祥の地だから、まあいいか・・・

その後、源氏は源頼朝と木曾(源)義仲の二人を中心にして、平家に反撃を考えます。

平家に
反撃するか・・・

そして、1180年に以仁王の令旨を受けて、源頼朝、木曾(源)義仲は挙兵します。

木曾義仲と源義経の登場:一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦い

木曾(源)義仲(Wikipedia)

挙兵した頼朝の元には、大勢の源氏が集まり、平家に反感を持っていた方々も集まりました。

歴史上、少し軽めに扱われる木曾義仲。

ところが、「まず平家に大打撃を与えた」のは木曾義仲でした。

この意味では、「木曾義仲なくして、源頼朝なし」と言えるほど重要人物です。

ゆけゆけ!
平家を倒せ!

あの時、
殺しておけば・・・

悔やむ清盛でしたが、「後の祭り」でした。

政治には、非常に高い力量を発揮した頼朝。

合戦は、あまり得意ではありませんでした。

源義経(Wikipedia)

兄さん。
合戦なら任せてよ。

この時、彗星の若き現れた「戦うために生まれてきた」ような人物こそ、弟の源義経でした。

ゆけゆけ!
平家を倒せ!

「平家でなければ人ではない」という傲慢な姿勢だった兵士に対して、次々と反乱が起きます。

おのれ!
頼朝め!

位人臣を極めた太政大臣平清盛は、失意の中、

我が墓前に、頼朝の
首を供えよ!

ついに1181年に清盛は死去します。

天才的な軍略を持つ源義経率いる源氏は、平氏を押します。

一ノ谷の戦い(Wikipedia)

そして、抜群の軍事的才能を持っていた源義経は1184年の一ノ谷の戦いで、平氏に大勝利します。

壇ノ浦の戦い(Wikipedia)

ついに壇ノ浦(山口県下関)まで追い詰められた平氏は滅亡します。

1185年の壇ノ浦の戦いです。

やったぜ!

義経、
よくやった!

頼朝、義経兄弟は大喜びですが、しだいに仲違いを始めます。

平家を倒したのは、
僕のお陰だ!

義経め!

仲違いする頼朝と義経:守護と地頭

後白河法皇(Wikipedia)

こらこら、兄弟なんだから、
仲良くしなさい。

嫌です。
義経が増長したのが悪い!

うるさい平家がいなくなった
と思ったら、また喧嘩か・・・

やれやれ・・・
だから武士は困る・・・

平家を倒したら、今度は源氏内部で内輪揉めが始まりました。

法皇。
義経を追討するために、監視役が必要です。

全国に守護・地頭を
設置させて下さい!

それでは、
頼朝が強権を持つ事になる・・・

よし、
分かった・・・

頼朝に逆らっても、
仕方ない・・・

当時の荘園(領土)を管理する地頭は、平安時代頃からありました。

それを頼朝が「自勢力の要」として再編成して、守護と地頭をセットで1185年に設置します。

この1185年をもって「鎌倉幕府の実質誕生」という意見もあります。

その後、頼朝は義経を強引に追討して、覇権を握りました。

私に強権があることを
示す立場・職位が欲しい・・・

すでに「守護・地頭の任命権」という「権力の実」を把握した頼朝。

「権力の名」を求める方針を固めました。

つまり、「権力の実」に加え、「権力の名」を得て「名実ともに最高権力者」になろうとする頼朝。

私を
大将軍にしてください!

落ち着いて前後関係から推測:流れと出来事

後鳥羽天皇(Wikipedia)

「大将軍に」と願った頼朝に対して、朝廷は少し困りました。

その後、後白河法皇が亡くなり、正式に朝廷のトップとなった後鳥羽天皇。

汝を、
征夷大将軍に任じる!

ははーっ!

こうして、1192年に源頼朝の征夷大将軍就任となります。

こうして、頼朝の将軍就任に関与した後鳥羽天皇。

のちに後鳥羽上皇となり、1121年に承久の乱を起こします。

以上から、答えは、イ→ア→エです。

もし、「一ノ谷の戦い」のような「途中の戦い・合戦」を知らなくても、

壇ノ浦の戦いが
「最後」だから・・・

関連する戦いは、
その前のはず!

と推測して、イ→アが分かります。

その後、頼朝が実権を握ってゆく過程のと組み合わせて、答えが分かります。

ここで、「壇ノ浦の戦い」で平家を討滅したからこそ、「守護・地頭設置」につながったのです。

「守護・地頭設置」の前後関係には、諸説あります。

源頼朝にとって、最優先事項は、

大打撃を与えた平家に
とどめを刺す!

であり、守護・地頭設置などで朝廷・天皇と駆け引きをする余裕はありません。

また、朝廷側からしても、壇ノ浦の戦い前は、

まだ、源氏と平氏のどちらが
最終的勝者になるか、わからんのう・・・

下手に源氏に肩入れして、
平氏が勝ったら、後で平氏に反撃されそうだ・・・

武力を持たない天皇・朝廷は、武家に対しては「静観する」しか出来ません。

そこで、「壇ノ浦の戦い→守護・地頭の設置」となります。

年号の順序の問題が出て、

これは、
知らない・・・

という出来事があっても、落ち着いて前後の流れから考えるようにしましょう。

新教育紀行

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