前回は「「庶民の視点」を理解する歴史の学び〜浮世絵にみる江戸の庶民生活・欧州で流行したジャポニズム・鎖国政策と海外の文物〜」の話でした。
明治維新の原動力「松下村塾グループ」:維新の四傑
hs11_100ts
今回は、問10に進みます。
原題に、筆者が(2)(3)を追加しています。
原題では、

吉田松陰の塾の
名前は?
答えは「松下村塾」で、吉田松陰と松下村塾は、中学受験で出題が非常に多いです。


「神格化された」存在となった吉田松陰は、「松陰神社」があり、本当に神になりました。



何事も
実行するのが大事だ!
現代の「問題の解き方を学ぶ」だけの塾とは大きく異なり、当時の塾は「先生の考え方を学ぶ」でした。
そして、「松下村塾グループ」は、明治維新を猛烈に推進した軍団となりました。


明治維新に関しては、「維新の三傑」とまとめられることが多いです。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀
・長州:木戸孝允・大村益次郎・前原一誠・広沢真臣
・肥前:江藤新平
・肥後:横井小楠
・公家:岩倉具視
他には、明治期に「維新元勲十傑論」を表した山脇之人による「維新の十傑」もあります。



「維新の十傑」は
知らなかった・・・



「維新の十傑」では、
長州の人が多いね。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
筆者は、上の四名による「維新の四傑」が最も幕末維新を理解するのに良いと考えます。
ぜひ、「西郷・大久保・木戸」に岩倉を加えて、幕末維新を整理してみましょう。
薩長土肥と呼ばれる、明治維新の原動力の勢力たちは、実際には「薩長・土肥」でした。
つまり、「薩長」と「土肥」の間には、極めて大きな差があったのが現実でした。
「薩長」とひとまとめにされますが、討幕(倒幕)に向けて先駆けたのは、明らかに長州でした。
吉田松陰と松下村塾生たちの生き様





我が長州藩が、
天皇中心の世を作るのだ!



吉田先生に
続くのだ!



おうよ!
俺たち「松下村塾グループ」が世を変えようぜ!
人数は、それほど多くはなかった「松下村塾グループ」でしたが、極めて優秀な若者が集まりました。
そして、なんといっても「時代を変えたい熱い思い」を持つ人物が多数いました。



私は、「松下村塾グループ」
ではないのだが・・・
「維新の四傑」の一人であり、「長州の総帥」となった木戸は「松下村塾グループ」ではありません。



松下村塾グループが
明治維新の原動力になったのに・・・



長州のボスが、松下村塾生で
ないのは不思議だね・・・
年長者であった木戸は、桂小五郎と名乗っていた時代から、ずっと「兄貴分」でした。
実は、松下村塾グループから「長州の総帥」を「輩出出来なかった」のは、大きな理由があります。
維新初期から「戦い続けた」長州の松下村塾グループたち。
「戦い続けた」ために、次々と亡くなってしまったのでした。
hs11_152ts
ここで、吉田松陰と松下村塾生たちを整理しておきましょう。
主なメンバーの生まれた年と亡くなった年を整理して、書いてみましょう。
山縣有朋に関しては、筆者は「松下村塾生ではない」と考えますが、一応入れておきます。
hs11_153ts
松下村塾の「双璧」と呼ばれた、「ツー・トップ」の久坂玄瑞と高杉晋作。
この二人が、明治維新を見ることなく、亡くなってしまいました。



吉田稔麿って
聞いたことないけど・・・
池田屋騒動(事件)で早く亡くなってしまった吉田稔麿は、当時極めて人望が高く、優れた人物でした。



長州は優れた人が
どんどん亡くなってしまったんだね・・・
そして、彼らが亡くなった理由を見てみましょう。
高杉晋作は肺結核による病死ですが、「戦い続けて無理をした」結果でした。



おもしろき
こともなき世を・・・



おもしろく
・・・
そのため、筆者は高杉は「事実上、戦死」と考えます。
こうして見てみると、松下村塾生が瞬く間に「維新前に大多数消えてしまった」のが分かります。
先生であった吉田松陰が処刑されてしまい、それに続いた松下村塾生たちは、



とにかく、吉田先生の
教えの通り、実行する!



はっはっはっ!
軍艦率いて、幕軍と戦うぜ!
とにかく「戦い続けた」のでした。
本来、明治維新後に「長州の中核」となるべきであった「松下村塾グループ」は大多数消えました。



明治維新が成立し、
私が長州の総帥となろう・・・
名前 | 生年 | 松下村塾 |
吉田 松陰 | 1830 | ◯(指導者=先生) |
木戸 孝允(桂小五郎) | 1833 | – |
前原 一誠 | 1834 | ◯ |
入江 九一 | 1837 | ◯ |
山縣 狂介(有朋) | 1838 | – |
高杉 晋作 | 1839 | ◯ |
久坂 玄瑞 | 1840 | ◯ |
伊藤 博文(俊輔) | 1841 | ◯ |
吉田 稔麿 | 1841 | ◯ |
もともと「吉田松陰に近い年齢」でもあり、「お兄さん」であった木戸が、長州閥を握りました。
後年、明治政府のドンとなる伊藤博文は、この頃は「若造」でした。



松下村塾軍団で
生き残ったのは、少数・・・



みんな、
みんな死んでしまった・・・



高杉も久坂も、
入江も吉田も、みんなが・・・
そして、生き残った松下村塾グループの年長者となった前原一誠。
前原が「松下村塾グループのまとめ役」となるのは自然の流れでした。



前原の
バカめが!



木戸など
口先だけよ!
そして、なぜか木戸と前原は「犬猿の仲」を超えた「憎しみあった仲」でした。
この理由は諸説ありますが、おそらく「どうしてもウマが合わなかった」のが根幹的理由です。
そして、ゴタゴタを続けた明治新政府では、明治六年(1873年)大事件が起きました。
西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが一斉に下野してしまったのでした。
人々の思いを理解する歴史の学び:明治新政府の内輪揉めと萩の乱





もう、おいどんは
新政府を去るごわす!



大久保は
信じられんことをする!



岩倉さんも大久保も
滅茶苦茶だ!
江藤新平は、すぐに反乱を起こします(1874年、佐賀の乱)が、即鎮圧されました。



松下村塾で下っ端だった
伊藤(博文)がでかい顔しおって・・・



そして、山縣(有朋)、井上(馨)など
みんな、長州の連中は村塾のおかげだ・・・



おのれ・・・
松下村塾の理念をもう一度!
そして、長州軍団の中核「松下村塾グループ」が決起し、ついに1876年、萩の乱を起こしました。
hs11_151ts
中核は前原一誠であり、大勢の村塾出身者が、萩の乱に参加しました。



我らも前原さんに
ついてゆこう!



皆で松陰先生の教えを
実行するぞ!
新政府で兵部大輔(防衛・国防次官)を務めた前原は、軍事に強く、多くの村塾生が決起しました。
明治維新が成立して9年も経過した後に勃発してしまった、「村塾グループの反乱」に対し、



前原と一緒に
多数の村塾出身者が、反乱に参加してしまった・・・
前原としては「自分たちこそ正統派」でしたが、世間から見たら、単なる「賊軍・反乱軍」でした。



我が養子も
乱に参加してしまった・・・
松下村塾を「過激グループ」にしたのは、吉田松陰ですが、創設者・玉木からすれば、



私が松下村塾を
作ったがばかりに・・・



天子様(明治天皇)に叛逆する
若者たちを多数育ててしまった・・・
そして、玉木文之進は「萩の乱の責任を取って自刃」しました。



・・・・・
玉木の養子が萩の乱に参加したことも、自刃の大きな理由ですが、最大の理由は「村塾生の存在」でした。
「武士であること」を大事にしていた玉木は、養子が乱に参加しなくても自刃したでしょう。
新政府軍によって、萩の乱は短期間で鎮圧され、



むう・・・
我が松下村塾もこれまで・・・
前原は処刑されてしまいました。



・・・・・
まるで花火のようにパッと鮮烈で巨大な光を放ち、幕末維新を強く、強く彩って消えていった人々。
その人々の筆頭格が、松下村塾グループでした。
問1 (1)源義家 (2)和歌山 (3)高知 (4)川崎
(5)徳川吉宗 (6)参勤交代 (7)日露戦争 (8)徳川慶喜
問2 (1)源氏物語 (2)藤原道長
問3 (1)兵庫県 (2)北条政子
問4 (1)足利義満 (2)明
問5 水戸藩
問6 (1)三内丸山 (2)大森
問7 (1)福岡県 (2)佐賀県
問8 イ
問9 (1) 歌川広重 (2)ゴッホ
問10 (1)松下村塾 (2)出来事:萩の乱 中心人物:前原一誠
(3)多数の松下村塾の塾生たちが、萩の乱に参加したから
問11 (1)明治天皇 (2) ア
問12 (1)エ (2)エ
問13(1)下関条約 (2)イ
問14 ウ
問15 (1)ジュネーブ (2)ウ
問16 (1)南満洲鉄道 (2)大日本帝国 (3)松岡洋右
次回は上記リンクです。