前回は「山崎直子 7~図鑑と創造力〜」の話でした。

威人紀行6人目の方は、山川(大山)捨松です。
学問のために米国へ
幕末の1860年に会津藩に生まれた山川捨松。
幼名は咲子でした。
時は、徳川幕府から明治新政府へと変わる時期で、時代の躍動期でした。
文明において、欧米と比較して大きく出遅れていた日本。


欧米から学ばねば、
新生日本は始まらない!
明治新政府は「海外に学ばねば」と、優れた人物を留学生として送り出します。
1871年(明治四年)、女子の米国留学生5名の一人に選ばれた山川捨松。


この5人の女性の一人には、のちに津田塾大学を設立する津田梅子も、最年少の9歳で参加します。
山川捨松12歳の時でした。



日本のために、頑張るわ!
大学を卒業、学士号を取得した初の日本人女性
威人紀行で取り上げている後藤新平は、同時期の1857年に生まれています。
会津藩には、各藩と同様に日新館という藩校がありましたが、学ぶのは男子であることが前提でした。
「女子が勉強する」という概念自体が、当時の日本にはなかったのです。
幕府が設立した昌平黌、各藩の藩校がありましたが、明治新政府は「学びの拠点」設立を決断します。
そして、1877年に東京開成学校と東京医学校を合併して、東京大学を設立します。
東京大学で、初めて卒業生に学士号が授与されたのは1879年。
東大設立6年前に、米国へ渡った山川捨松は猛勉強します。
そして、ハイスクールから大学まで非常に優秀な成績を修めます。


非常に聡明そうな表情の山川捨松。
1882年にヴァッサー大学卒業の際は、学年3位の成績で卒業し”magna cum laude”を受賞して卒業します。
捨松の名前の由来
生まれた時に「咲子」という名前のあった捨松。
当時、15歳〜18歳くらいで結婚することが多かった日本人女性。
「12歳から22歳まで米国で学ぶ」のは、当時「婚期を逃す」と考えられたのです。
そのため、鳴り物入りで大募集した「女性留学生」でしたが、「当初は応募がなかった」ほど人気がなかったのです。
そして、兄の勧めで思い切って応募して合格した、山川咲子でした。
大変な名誉でしたが、母のえんは落胆します。
名誉かもしれないが、
婚期を逃す可能性が高い・・・
この世で再会できるかは、
分からないけど・・・
捨てたつもりで、
待つ(松)わ。
この母の気持ちで、「咲子」から「捨松」に改名します。



「捨松」になって、米国で一生懸命
勉強します!
この時の、山川捨松の気持ちは、非常に複雑だったでしょう。
その中、猛勉強をして、立派な成績で米国大学を卒業した実績は、「日本人女性の道を切り開いた」と言えるでしょう。