完全包囲されて燃える後藤新平〜絶大だった帝大(東大)の影響力・別格の「帝大」という存在・相馬事件の大衝撃・戦国時代からの名家相馬家のパワー〜|後藤新平23・人物像・エピソード

前回は「飛び級して東大医学部へ進級した森鴎外〜超成績優秀だった鴎外・鴎外の子どもたちの「不思議な名前」・欧州への極めて強い憧憬を持った鴎外たち〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

相馬事件の大衝撃:戦国時代からの名家・相馬家のパワー

新教育紀行
京が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

相馬事件に巻き込まれた後藤。

我らが殿である相馬誠胤様が
精神病とされてしまい・・・

元は大名家で、
家族の相馬誠胤さんですか・・・

このくらいで、
精神病とは言えんだろう。

そして、医師として自信を持っていた後藤は、「精神病ではない」と判断を下しました。

そうこうしているうちに、相馬家内部も事情もあり、日本全体を揺るがす大事件に発展しました。

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左上から時計回りに戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

戦国時代に磐城に蟠踞し、「東北の雄」であった相馬家はかなり強力な存在でした。

そして、武勇の誉れ高い武将を多数出した相馬家は、江戸時代は6万石の領土を有する外様大名でした。

江戸時代、島津家73万石や伊達家62万石と比較すると、6万石は「大きな領土ではない」存在です。

幕末に300ほどの藩が存在しましたが、中には1万石程度の大名も多数存在しました。

その中で、6万石の大名であった相馬家は、「相応の格式と力を持っていた」大名でした。

そして、1871年の廃藩置県によって相馬中村藩は消滅しました。

もともと大名であり、華族となっていた相馬家と、それほど家柄が高い出身ではない後藤新平。

もし、江戸時代に大名・相馬家が相手では、

殿様が相手では、
絶対に勝てない・・・

となるはずでした。

相馬事件の裁判が行われていた1894年は、明治維新から26年。

時代がもう少し昔で江戸時代であれば、大名相手では「勝てない」のが当然でした。

江戸時代ならば後藤新平は全く太刀打ちできず、「勝負以前」の立場でした。

明治時代になったことで、旧大名・華族の相馬家と「戦うことは可能」ですが、かなり困難でした。

だが、俺は
負けないぞ!

完全包囲されて燃える後藤新平

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大日本帝国憲法発布(Wikipedia)

「名家」は残っているものの、「華族」は廃止された現代。

「華族」という文字が示す高貴さと世間における影響力は、現代ではなかなか実感できません。

士農工商などの階級が一気に取り払われた「大改革」が行われた明治維新。

それでも、立場的には「特権階級」であった華族である相馬家の力が超強力でした。

その特権階級を敵に回して、戦う後藤新平。

この意味では、この「相馬事件」は江戸時代から明治時代に変革した意識の衝突でもありました。

高級官僚であった後藤新平と華族・相馬家の戦いは、日本中が注目する「階級闘争」でもありました。

敵は華族で
元大名の相馬家・・・

そして、衆議院議長で
弁護士の星亨・・・

これだけでも「超大物に包囲された」状況でした。

さらに、鑑定に関して、帝大(東京大学)と大論争になり、帝大も敵に回した後藤。

さらに、
帝大(東大)医学部か・・・

超強力な敵たちに囲まれた後藤青年。

さすがに
これは・・・・・

ふう・・・・・
なかなかだな・・・

当時、内務省衛生局長という高級官僚であった後藤とはいえ、敵は巨大・強大過ぎます。

むう・・・
これは困った・・・

しかし、しかしだ!
鑑定は絶対におかしい!

強気一辺倒の後藤とはいえ、防戦一方となります。

おかしいものは
おかしいのだ!

これは、私の
医師としての矜持だ!

とにかく、俺は
勝ってみせる!

完全包囲されて燃える後藤新平でした。

絶大だった帝大(東大)の影響力:別格の「帝大」という存在

片山国嘉 帝大(東大)医学部教授(Wikipedia)

帝大(東大)教授である
私の鑑定が違う、だと?!

帝大(東大)を
舐めるなよ!

ドイツでの留学は
非常に実り多かったが・・・

非常に
きつかった・・・

なんの!これまで
頑張ってきたんだ!

必ず戦い抜いて
みせる!

と意気込んだ後藤新平。

現代と異なり、当時の帝大の影響力は絶大でした。

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東京大学(Wikipedia)
設置年大学名
1877年東京帝国大学
1897年京都帝国大学
1907年東北帝国大学
1911年九州帝国大学
1918年北海道帝国大学
1924年京城帝国大学(韓国、のちに廃止)
1928年台北帝国大学(台湾、のちに廃止)
1931年大阪帝国大学
1939年名古屋帝国大学
帝国大学設置年(Wikipediaより)

1883年から1895年の間にかけて、長い時間をかけて法廷などで争われた相馬事件。

この相馬事件勃発の時、「ただ一つの帝大」だった東京帝国大学。

1895年において「ただ一つの帝大」だった帝国大学は、「東京」が名称になく、単に「帝国大学」でした。

帝国大学を設立し、
国家のために、若者を教育する!

明治維新から18年後の1886年に「帝国大学令」が制定され、東京大学は帝国大学に名前が変わりました。

2年後の1897年に京都帝国大学が設立される際、「区別」するために「東京」帝国大学となりました。

現代では東京大学の東京帝国大学は、「国家の威信をかけて若者を育成する機関」でした。

「高等教育機関・大学」というよりも、「大日本帝国を背負う人物を育てる機関」であった帝大(東大)。

その存在感と影響力は、現代の東大の1000倍以上であったでしょう。

帝大(東大)・衆議院議長・特権階級である華族に完全包囲された後藤。

いくら高級官僚であったも、

俺は絶対に負けない、
負けないが・・・

本当に俺は
大丈夫だろうか・・・

「超強気な性格」くらいでは挫けてしまう状況でした。

「超順風満帆」だった人生から、一気に奈落の底に落ちてしまった後藤。

超強気であった後藤でしたが、

ひょっとしたら、
この俺もこれまでか・・・

内心は、絶望の淵にいたのが現実だったでしょう。

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