徳川家の由来と源氏発祥の地である関東〜源平交代思想・「大将軍」就任目論む源頼朝の狙い・一気に格上げされた「征夷大将軍」〜|江戸から東京へ9

前回は「全く異なる江戸湾と東京湾〜由緒正しき田舎だった関東・征夷大将軍と関東と鎌倉・太政大臣平清盛の時代から源頼朝の時代へ〜」の話でした。

目次

「大将軍」就任目論む源頼朝の狙い

鎌倉幕府初代将軍:源 頼朝(Wikipedia)

私を大将軍にして
ください!

平氏を打倒して、意気揚々の頼朝。

後白河法皇(Wikipedia)

大将軍という
職はないのだが・・・

頼朝の押しに困る朝廷でした。

そもそも朝廷や後白河法皇に無理難題を押し付け続けてきた頼朝。

源義経(Wikipedia)

ゆけゆけ!
平家を倒せ!

一ノ谷の戦い(Wikipedia)

抜群の軍事的才能を持っていた源義経は、1184年の一ノ谷の戦いで、平氏に大勝利します。

壇ノ浦の戦い(Wikipedia)

ついに1185年の壇ノ浦の戦いで、壇ノ浦(山口県下関)まで追い詰められた平氏は滅亡します。

平氏を打倒したのは、
僕のおかげだ!

平氏を倒したと思ったら、今度は源氏の内部抗争が始まりました。

義経め!

法皇。
義経を追討するために、監視役が必要です!

全国に守護・地頭を
設置させて下さい!

やむを
得ないな・・・

頼朝は「源氏の権力増強」を目論み、守護と地頭をセットで1185年に設置します。

最近の歴史観では、この1185年が「鎌倉幕府の実質的成立」とみなしています。

とにかく、「天皇・朝廷の下」であるはずの武家の頼朝が増長し続けている状況に対して、

いくら、頼朝が源氏の
ボスだからと言って・・・

新たな役職など、
作れぬわ!

後白河法皇のイライラは続きます。

守護・地頭の権限で
十分だろう!

かなり強気な天皇であった後白河法皇。

太政大臣であった、平清盛とも散々やり合いました。

太政大臣 平清盛(Wikipedia)

大体、源氏が勝ったのだって、
ワシのお陰でもあるんだ。

頼朝の「大将軍就任」という要望は、しばらくの間、こう着状態になります。

その後、1192年に後白河法皇が崩御します。

一気に格上げされた「征夷大将軍」

後鳥羽天皇(Wikipedia)

そして、1192年に後白河法皇の孫である後鳥羽天皇が、正式に朝廷トップとなります。

私が新たな
天皇です!

鎌倉幕府初代将軍:源頼朝(Wikipedia)

天皇就任、
おめでとう御座います。

ところで、早く私を大将軍にして
ください!

鎌倉の頼朝からは、矢のように催促が来ます。

なんだ、
またか・・・

頼朝は
うるさいな・・・

こちらは、祖父が亡くなったり
代替わりで大変なのに・・・

既に天皇にはなっていたものの、朝廷トップになったばかりの若い後鳥羽天皇。

はあ・・・

段々と面倒になってきます。

新たな役職を作るのは、
手続きが大変だから・・・

征夷大将軍が「大将軍同等」
ということにしよう。

名前も似ているし、
ちょうど良い。

すでにある征夷大将軍を「形式上一気に格上げ」した後鳥羽天皇。

そもそもは、征夷大将軍の元々の立場は「蝦伐」する官職でした。

この意味において、「一つの大将軍の名称」に過ぎなかった征夷大将軍。

頼朝よ。
征夷大将軍は大将軍と同等だ。

汝を、
征夷大将軍に任じる!

はは〜!

大喜びの頼朝でした。

そして、この時の後鳥羽天皇の判断が、1867年まで続いた「征夷大将軍の時代」を開きました。

徳川家の由来と源氏発祥の地である関東:源平交代思想

戦国大名 徳川 家康(Wikipedia)

徳川家康の徳川家は、関東の上野国(群馬県)の得川(とくがわ)氏に由来するという説があります。

川の得の字を「」にして「松平氏から徳川氏」となったという説です。

これからは、
徳川だ!

名前が変わることが多かった戦国時代。

戦国大名 上杉謙信(Wikipedia)

上杉謙信は、長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信と名前を変えました。

この場合、長尾氏は「関東管領であった上杉家を継いだ」ので、上杉への改名は由緒正しい流れでした。

何と言っても、
上杉家は名家なのだ!

武田 信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田信玄はもとは武田太郎でしたが、元服後に将軍・足利義晴の「」の字をもらい信を名乗ります。

そして、武田晴信→武田信玄となります。

将軍など「高貴・目上な方から名前を頂戴する風習(偏諱)」が当時はありました。

そのため、名前が変わることは多かったのです。

現代は「名前が変わる」ことは、なかなかない状況ですが、当時はコロコロ名前が変わりました。

一方で、苗字が変わることは比較的少なかったのです。

桶狭間の戦い(Wikipedia)

桶狭間の戦いで、目上の存在だった今川義元が消えます。

「松平元康」という名前だった当時20歳の青年武将だった徳川家康。

当時の名前の「康」の元の字は、「今川義の元から拝領した」名前でした。

もう、今川家とは
縁を切る!

だから、義元殿と縁がある
元康はやめて、家康!

そのついでに「松平」から「徳川」に名前を変えた家康。

ついでと言っても、そうそう変えることのない、苗字の変更。

父祖伝来の名前を変更することは、相当抵抗があったでしょうが、変えました。

ここで、一気に人生を
変えるのだ!

その理由は定かではありませんが、余程大きな決意があったのでしょう。

天下人 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

当時、平氏を名乗っていた天下人・織田信長。

余は
平氏だ!

それは、信長なりの戦略があました。

源氏の足利家に対して、「源平交代=源氏から平氏へ」という流れを作ろうとしていました。

平信長が
天下を治める!

対して、もともと源氏を名乗っていた家康。

私は
由緒正しき源氏!

源氏といえば、
征夷大将軍!

そこで、「信長との同盟時代から、家康が鎌倉のある関東を望んでいた」説もあります。

まあいいわ・・・
秀吉の命令だが、新たな人生だ!

様々な思いを携えて、江戸に向かった家康でした。

新教育紀行

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