前回は「島津家と毛利家を動かした「討幕の密勅」〜同日だった薩摩への「討幕の密勅」と大政奉還・家臣だった西郷と木戸・歴史が動く「その時」〜」の話でした。
「全て欧化」を猛烈推進した明治政府:和魂洋才の徳川幕府

1868年に明治維新を成し遂げた薩長を軸とする新政府軍。
この年、徳川幕府の慶應四年と同時に、明治政府による明治元年となりました。
つまり、慶應四年=明治元年です。
西郷隆盛慶喜を降伏させ、
徳川の象徴、江戸城を奪取した!



まだ徳川残党は
残っているが、新たな時代だ!



「新たな世」というよりも、
全く違う世界にするのだ!



きちんとした天皇親政は
久しぶりだのう・・・
様々な人物の思惑が交錯する中、明治新政府は「政府の体制」の確立を大急ぎで作りました。


この時、真っ先に「憲法に近い新時代の基礎的法令」である「五箇条の御誓文」が出されました。



この木戸孝允が
全てを見直したのだ!
「五箇条の御誓文」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



とにかく、
西洋の学問を取り入れなければ!
当時、欧米と比較して「明らかな後進国」であった日本は、欧化を急ぎました。





洋学がはるかに進んでいて、
欧化が必要なのは当然だ・・・



この榎本は、
オランダに留学し・・・



海軍を中心に、
窮理(物理)や舎密(化学)も学んだ・・・
「欧化」は徳川幕府も猛烈に推進していたのが、現実でした。
その意味では、明治政府と徳川幕府の方針は似ていましたが、明治政府は「より過激」でした。
和魂洋才だった徳川幕府に対して、「全て欧化」を推進したのが明治新政府でした。
欧化の象徴・鹿鳴館への明治政府の思い:「格下・劣等国」からの脱却


そして、欧化推進の中、岩倉使節団を欧米各国に派遣した明治政府。
岩倉使節団に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
岩倉使節団は「派遣」と呼ばれますが、「派遣」ではないのが実態でした。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
そもそも、「明治維新の四傑」のうち、三名が「派遣」というよりも「出陣」した岩倉使節団。
当時、三条実美が太政大臣でしたが、「事実上のボス」であった岩倉自ら乗り込みました。
さらに補佐役として、木戸孝允と大久保利通を含む政府の大幹部・幹部がドッと欧米に向かいました。



しまった・・・
全権委任状を忘れた・・・
ところが、「子どもの使い」の如く、最も重要な書類であった「全権委任状」を忘れた岩倉たち。



私と伊藤が、急遽帰国して、
取って参ります!
そして、大久保と伊藤が一時帰国して、全権委任状を明治天皇から交付を受けました。
全権委任状に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
現代のように、飛行機で一っ飛びではなく、船で太平洋を行き来した当時。
この「全権委任状問題」だけで、7ヶ月ほど岩倉使節団の「派遣期間」は延びました。
勿論、この間も様々な視察を行うなど有意義に過ごしたものの、肝心の条約改正の進展はゼロでした。



とにかく、欧化して
全てを欧米流に!
世界一周して、「いかに日本が低レベルで、低く見られているか」を実感した政府幹部たち。


その一つの象徴が鹿鳴館でした。
英国人建築家ジョサイア・コンドル設計による、鹿鳴館。
鹿鳴館のデザインは、古来から伝統のある日本建築と全く異なるデザインでした。


そして、当時、鹿鳴館で踊っていた、洋装の日本人女性の写真が上の写真です。
次回は、上の写真に関して考えてみましょう。




