欧化の象徴・鹿鳴館への明治政府の思い〜「格下・劣等国」からの脱却・「全て欧化」を猛烈推進した明治政府・和魂洋才の徳川幕府〜|鹿鳴館1・写真と資料が映す歴史1

前回は「島津家と毛利家を動かした「討幕の密勅」〜同日だった薩摩への「討幕の密勅」と大政奉還・家臣だった西郷と木戸・歴史が動く「その時」〜」の話でした。

目次

「全て欧化」を猛烈推進した明治政府:和魂洋才の徳川幕府

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通(国立国会図書館)

1868年に明治維新を成し遂げた薩長を軸とする新政府軍。

この年、徳川幕府の慶應四年と同時に、明治政府による明治元年となりました。

つまり、慶應四年=明治元年です。

西郷隆盛

慶喜を降伏させ、
徳川の象徴、江戸城を奪取した!

大久保利通

まだ徳川残党は
残っているが、新たな時代だ!

木戸孝允

「新たな世」というよりも、
全く違う世界にするのだ!

岩倉具視

きちんとした天皇親政は
久しぶりだのう・・・

様々な人物の思惑が交錯する中、明治新政府は「政府の体制」の確立を大急ぎで作りました。

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五箇条の御誓文(Wikipedia)

この時、真っ先に「憲法に近い新時代の基礎的法令」である「五箇条の御誓文」が出されました。

木戸孝允

この木戸孝允が
全てを見直したのだ!

「五箇条の御誓文」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

大久保利通

とにかく、
西洋の学問を取り入れなければ!

当時、欧米と比較して「明らかな後進国」であった日本は、欧化を急ぎました。

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幕末に近代化を推進した徳川幕府幹部:左上から時計回りに、徳川慶喜、勝海舟、榎本武揚、小栗忠順(Wikipedia)
榎本武揚

洋学がはるかに進んでいて、
欧化が必要なのは当然だ・・・

榎本武揚

この榎本は、
オランダに留学し・・・

榎本武揚

海軍を中心に、
窮理(物理)や舎密(化学)も学んだ・・・

「欧化」は徳川幕府も猛烈に推進していたのが、現実でした。

その意味では、明治政府と徳川幕府の方針は似ていましたが、明治政府は「より過激」でした。

和魂洋才だった徳川幕府に対して、「全て欧化」を推進したのが明治新政府でした。

欧化の象徴・鹿鳴館への明治政府の思い:「格下・劣等国」からの脱却

新教育紀行
岩倉使節団(Wikipedia)

そして、欧化推進の中、岩倉使節団を欧米各国に派遣した明治政府。

岩倉使節団に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

岩倉使節団は「派遣」と呼ばれますが、「派遣」ではないのが実態でした。

明治維新の四傑(新教育紀行)

・薩摩:西郷隆盛・大久保利通

・長州:木戸孝允

・公家:岩倉具視

そもそも、「明治維新の四傑」のうち、三名が「派遣」というよりも「出陣」した岩倉使節団。

当時、三条実美が太政大臣でしたが、「事実上のボス」であった岩倉自ら乗り込みました。

さらに補佐役として、木戸孝允と大久保利通を含む政府の大幹部・幹部がドッと欧米に向かいました。

岩倉具視

しまった・・・
全権委任状を忘れた・・・

ところが、「子どもの使い」の如く、最も重要な書類であった「全権委任状」を忘れた岩倉たち。

大久保利通

私と伊藤が、急遽帰国して、
取って参ります!

そして、大久保と伊藤が一時帰国して、全権委任状を明治天皇から交付を受けました。

全権委任状に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

現代のように、飛行機で一っ飛びではなく、船で太平洋を行き来した当時。

この「全権委任状問題」だけで、7ヶ月ほど岩倉使節団の「派遣期間」は延びました。

勿論、この間も様々な視察を行うなど有意義に過ごしたものの、肝心の条約改正の進展はゼロでした。

大久保利通

とにかく、欧化して
全てを欧米流に!

世界一周して、「いかに日本が低レベルで、低く見られているか」を実感した政府幹部たち。

新教育紀行
鹿鳴館(Wikipedia)

その一つの象徴が鹿鳴館でした。

英国人建築家ジョサイア・コンドル設計による、鹿鳴館。

鹿鳴館のデザインは、古来から伝統のある日本建築と全く異なるデザインでした。

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鹿鳴館の洋装女性(毎日グラフ別冊 にっぽん女性100年 毎日新聞社)

そして、当時、鹿鳴館で踊っていた、洋装の日本人女性の写真が上の写真です。

次回は、上の写真に関して考えてみましょう。

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