守護の格式から「徳川の格式」へ〜「お山の大将」だった外様大名・政治の中枢は徳川と譜代・日本史において680年ほど君臨し続けた「幕府」〜|日本史における大名10・中学受験

前回は「「守護がトップの秩序」と天下人三人衆の家柄ランク〜朝廷の枢要に座り続けた中臣鎌足子孫の藤原氏・一気に巨大化した令外官征夷大将軍〜」の話でした。

目次

日本史において680年ほど君臨し続けた「幕府」

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各幕府の初代征夷大将軍たち:上から時計回りに源頼朝、徳川家康、足利尊氏(Wikipedia)

日本の歴史において、長い時代存在したのが「幕府」という政治統治機構でした。

「幕府」という呼び方は、江戸時代後期に登場した説が有力です。

そのため、「三つの幕府の初代征夷大将軍」が存命した頃は「幕府」という言葉はありませんでした。

年号出来事
1185年源頼朝、守護・地頭を設置
1192年源頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設
1333年鎌倉幕府滅亡
1336年足利尊氏、征夷大将軍に就任:室町幕府開設
1573年室町幕府滅亡(諸説あり)
1603年徳川家康、征夷大将軍に就任:江戸幕府開設
1867年徳川幕府滅亡(大政奉還)
三つの幕府の始まりと終わり

鎌倉幕府成立に関しては、「守護・地頭設置の1185年」とする考え方もあります。

筆者は「征夷大将軍就任という形式」が重要と考え、「1192年が鎌倉幕府創設」と考えます。

ここで、以降の室町・江戸幕府の「設」と鎌倉幕府「設」と言葉を分けたのは理由があります。

それは、鎌倉幕府が最初の「幕府(言葉は当時なし)という政治統治機構」を創り出したからです。

途中の室町幕府滅亡に関しては、「織田信長による将軍・足利義昭の追放」です。

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室町幕府第十五代将軍 足利義昭(Wikipedia)

信長め!
将軍を京から追放するとは!

ただし、この後も「足利義昭は征夷大将軍であり続けた」のが歴史の事実です。

ならば、政治の中心を
移動して、我が政治を続けるまで!

そして、征夷大将軍として足利義昭は、備後の鞆という場所で「政治を続けていた」のでした。

ただし、たいした権限もなく、なんとなく「足利将軍が政治しているつもり」だったのでした。

そのため、上の表では室町幕府滅亡に「諸説あり」と記載しています。

徳川家康

この家康が
戦国の世を終わらせる!

そして、徳川家康によって、「最後の幕府」である江戸幕府が開設されたのが1603年です。

1192年から1867年までの680年ほどの間、日本に君臨し続けたのが「幕府」でした。

守護の格式から「徳川の格式」へ

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そして、元は「松平」という名字だった「徳川」は、元々は「大した家柄ではない」存在でした。

鎌倉時代のスタート時期に生まれた「守護」という役職。

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守護は、当時の日本におけるそれぞれの国(現在の都道府県)の最高権力者でした。

「各国の最高権力者」という権力が生まれ、一定の時間が経過すると「格式」が生まれました。

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守護出身の名門戦国大名:左上から時計回りに、武田信玄、今川義元、大友宗麟、島津義弘(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

戦国時代に大大名となった武田・島津・大友などは、元々守護であり、絶大な格式を持っていました。

「戦国時代の華」である1560年〜1580年頃は、守護が生まれてから400年近く経過していました。

「400年間残っていた」守護の格式は、400年の間に「圧倒的な格式」となっていました。

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今回は、戦国時代に続く、「最後の幕府」となった徳川幕府における格式を考えます。

頂点に君臨するのが「徳川本家=将軍家」でした。

そして、それに続くのが「御三家」でした。

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御三家は、いわば「徳川本家=将軍家直属の親衛隊」の役割を持っていました。

「御三家」に関わる中学受験・社会の問題に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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「御三家」は徳川本家よりは格下となりますが、「将軍を輩出することが出来る」格式を持っていました。

そして、諸大名の間における江戸城の扱いは、御三家は文字通り「別格の扱い」を受けました。

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江戸幕府第八代将軍 徳川吉宗(Wikipedia)
徳川吉宗

御三家の紀伊から
この吉宗が新たな将軍になる!

八代将軍・吉宗は、「徳川本家の血筋が続かなかった」為、御三家の紀伊から将軍家となりました。

この時点で、御三家は「徳川本家=将軍家と同格になった」と考えられます。

徳川御三家・御三卿

御三家:紀伊・尾張・水戸

御三卿:田安・一橋・清水

徳川吉宗

御三家だけで
将軍家の血筋を守るには不安がある・・・

徳川吉宗

御三家の下に
御三卿を設立する!

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そして、生まれは御三家・水戸である御三卿・一橋からは、「最後の将軍」が誕生しました。

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第十五代将軍 徳川慶喜(国立国会図書館)
徳川慶喜

私は御三家である水戸出身だが、
一橋家から将軍になったのだ!

徳川幕府の末期において、御三卿の家格は一気に上がり、「御三家同等」に近くなったと考えます。

ところが、「徳川の時代」は、慶喜の時代にジ・エンドとなりました。

そのため、「御三卿の家格」は、急上昇してすぐに徳川の時代は終了してしまったのでした。

徳川慶喜に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

「お山の大将」だった外様大名:政治の中枢は徳川と譜代

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そして、御三卿の下には、「徳川(松平)家の三河以来」の譜代大名がいました。

いわば、「ずっと徳川(松平)家一本の家柄」が譜代大名でした。

譜代大名

私たち譜代大名は、
ずっとずっと徳川一本です!

譜代大名は需要な地を任され、「徳川中心の幕藩体制の屋台骨」となることが期待されていました。

そして、譜代大名には、井伊家を筆頭に大老を輩出した「大老四家」がありました。

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大老 井伊直弼(Wikipedia)
井伊直弼

不逞(ふてい)な連中を
まとめて処分する!

1858年の安政の大獄を引き起こした、大老・井伊直弼の井伊家は「御三家と同格に近い」家柄でした。

家名人数(名)
井伊5
酒井3
土井1
堀田1
井伊直弼就任以前の大老輩出

井伊直弼以前の大浪出身の家柄が上記であり、直弼を入れると「井伊から6名」です。

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譜代大名の下には、主に「関ヶ原」以降に徳川家に従った家が続きます。

彼らは「様(とざま)大名」と呼ばれ、名称からして、いかにも「部者」扱いでした。

外様大名には、前田・島津・伊達など石高が高い大名も多数いましたが、

徳川幕府

徳川幕府の中枢には、
信用できる譜代に任せる!

徳川幕府

外様大名は「お呼びでない」ので、
参勤交代してなさい!

外様大名の格式は、譜代大名から「かなり下」だったのでした。

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江戸時代の各藩・各家の格式をランク付けすると、上のようになります。

このランク付けは筆者独自の視点であり、様々な意見があるでしょう。

つまり、「Aランク(譜代大名)以上」が、徳川幕府の主流でありました。

そして、外様大名は「譜代大名である老中や大老に従う」存在でした。

外様大名は国家運営に関われず、諸外国との折衝も禁止されており、

徳川幕府

外様大名は、国元で
大人しくしていなさい!

大きな領土を持っていても、言わば「お山の大将」の扱いだったのが外様大名でした。

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