前回は「鴎外と漱石と柴三郎生んだ留学〜明治政府の「洋学マスター増強計画」・個性あふれる私塾・松下村塾と適塾の根本的違い〜」の話でした。

オンリーワンの「山川学校」構想

幕末から維新を牽引した多数の優れた軍人・政治家を輩出した、松下村塾。

そして、同様に幕末維新期に優れた軍人・教育家・政治家を輩出した適塾。
松下村塾と適塾は雰囲気が全く異なり、適塾の方が「学問の香り」が強いのが特徴です。
山川咲子アメリカ留学の経験を活かして
私塾を作りたいの!
明治政府の「学校制度」により、ほぼ絶滅してしまった藩校・私塾・寺子屋。





確かに私塾は良いが、
今は学校設立の動きが強い・・・



そう・・・
学校は難しいわね・・・
この頃、「私塾設立」は非常にハードルが高く、世の中の流れは「私塾ではなく学校」でした。
咲子ならば、オンリーワンの山川学校が作れそうですが、学校設立には多額の資金が必要です。
本来ならば、この「政府の意向」と「世の中の流れ」は断念せざるを得ない状況でしたが、



なんとか咲子の
希望を叶えられないか・・・
15歳年下の妹・咲子が可愛い兄・浩は、懸命に「山川塾に近い組織づくり」を考えました。



私塾のような
学校はどうか・・・
いわば、小さな規模の「山川学校」を模索した浩。


この頃、藩主松平容保は存命中であり、「旧会津藩の力」は多少なりとも健在でした。
そして、政府内で重職に就いていた浩は、各方面に「顔がきく」立場でした。



私の力で、
なんとか「咲子の夢」を叶えられないか・・・
米国に留学し、優れた成績で卒業した咲子の名声は、かなり高いものでした。
その一方で、当時の明治政府は現在の政府よりも「政府高官の力」が遥かに絶大だった明治時代。
そのため、咲子単独では私塾や学校設立は不可能であり、「政府高官」である浩の協力は大事でした。
大幹部の内輪揉めが続いた明治新政府:連発した士族たちの反乱





会津戦争を
戦い抜いて、政府に仕えた・・・
ここで、浩は再び過去を回想し始めました。
明治維新後、落ち着いた世になるはずだったのに、政府大幹部の内輪揉めが続きました。





明治政府に
尋問したいことあり!
挙げ句の果てに、「明治維新の顔」であった西郷隆盛が1877年に挙兵して、反乱を起こしました。
西郷側から見れば「世直し」でしたが、明治政府から見れば「反乱」以外の何者でもありませんでした。



会津戦争の9年後、
あの薩摩と戦った・・・



あの憎き
薩摩と白刃交えた・・・
幕末に「仲間だった」はずの薩摩は、突然「敵」となって、会津を徹底的に痛めつけました。
そのため、会津人にとって薩摩は「薩賊」であり、憎んでも憎みきれない存在でした。
そして、反乱軍となった薩摩軍は、他の「士族の反乱」同様に巨大政府軍には敵わないはずでした。
士族ではなく民間人から軍を編成した政府軍は、1877年頃は多数の鉄砲や大砲を持ち強力でした。
ところが、相手は「世界最強軍隊」だった薩摩軍。



農民が軍隊になった
など、笑わせるな!



我が薩摩士族の
剣を受けてみよ!
幕末に「人斬り半次郎」として有名だった桐野利秋率いる薩軍の白刃。



薩軍・西郷軍の
斬り込みには敵わない・・・
薩軍の剣による打撃力は、信じられないほど強力でした。



はっはぁ〜、
全員撃ち殺してくれる!
さらに、普通は「隠れながら撃つ」はずの鉄砲を、堂々と立ちながら撃つ薩軍の鉄砲隊。
圧倒的に有利であるはずの政府軍は、苦戦を強いられました。





政府軍が薩摩軍との
白兵戦に苦戦している・・・



それはそうだろう・・・
あの連中は世界最強なのだから・・・
ここで、現代の警察・警視庁のトップだった、元薩摩藩士の川路利良が登場します。
薩摩藩出身だった川路利良は、この頃は「大久保派」でした。
フランスに留学経験がある川路は、世界の軍隊の実態を知っていました。



諸外国の軍隊は
軍制も装備も我が国の上だ・・・



だが、剣や鉄砲での戦いならば、
「旧薩摩藩士の上」は世界中に存在しない・・・
そして、政府側で「薩軍の強烈な強さ」を骨の髄まで知悉していたのが、大久保と川路でした。
川路利良に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



目には目を、
歯には歯を・・・



異常に強き者には、
異常に強き者を・・・
1871年に廃藩置県執行後、6年が経過していた1877年。
まだまだ、藩や藩士の雰囲気は残っていました。



旧会津藩士を
薩軍にぶつけよう!
ここで、悪知恵を働かせた川路は、「薩摩に会津をぶつける」ことを思いつきました。
西南戦争で恨み果たした会津:「戊辰の恨み!」「打倒薩賊!」





この佐川官兵衛、
薩賊を討滅してくれる!
そして、幕末の頃は会津藩士であり、「鬼・佐川」の名で恐れられた佐川官兵衛。
西南戦争の頃、警察官となっていた佐川官兵衛率いる一隊が薩摩に向かいました。
本来は「軍と軍の戦い」であり、「警察は関係ない」はずでした。
ところが、佐川率いる警察が軍隊化して「抜刀隊」となり、薩摩に乗り込みました。
薩摩に対して「賊である薩摩=薩賊」と罵り、大いに意気込んで戦場に向かいました。



戊辰の
恨み!



会津での
戦いの恨み!
「戊辰」とは戊辰戦争のことであり、佐川官兵衛率いる旧会津藩士たちは猛烈な勢いで薩軍を攻めました。



薩賊を全員
叩き殺してくれるわ!
突然、超強力な政府軍登場に対して、薩軍最高指揮者であった桐野は驚愕しました。



な、なんだ?!
一体どうなっているのだ?



やたらと
強力な軍隊が出てきたな・・・



こんなに強い連中が、
政府のどこにいるというのだ・・・
その「超強力部隊」は、旧会津藩士とすぐに判明しました。



ちっ、
会津か・・・
会津戦争では、薩摩軍の最高指揮官であった桐野利秋(当時は、中村半次郎という名前)。



怯むな!
会津なぞ、敵ではないわ!
幕末以来の因縁を、感じずにはいられない桐野でした。



進め!進め!
薩賊を潰せ!!



薩賊を皆殺しに
するのだ!!
恨みと怨念が猛烈にこもった、力強い攻撃を続けた会津抜刀隊。
薩軍に対して、致命的ダメージを与えましたが、



うぐっ!
戦い続けた「闘将の権化」であった佐川官兵衛は、薩軍相手に死闘を続ける中、重傷を負いました。



最後の最後に、
薩賊を多数倒せて、本望だ・・・
そして、佐川官兵衛は、ついに戦死してしまいました。



西南戦争では、
我が会津藩士が多数出陣した・・・



佐川さんも
戦死してしまった・・・



薩摩め・・・
奴らに会津は、とことん叩かれた・・・



・・・・・
咲子の学校構想を考えながら、遠い目をして、会津の歴史を反芻していた浩でした。
次回は上記リンクです。



