前回は「西南戦争で恨み果たした会津〜「戊辰の恨み!」「薩賊を倒す!」・オンリーワンの「山川学校」構想・大幹部の内輪揉めが続いた明治新政府・連発した士族たちの反乱〜」の話でした。

「民間の力」を重視し続ける米国:私立中心の欧米校

山川咲子私の米国留学の経験を
活かして、私塾を作りたいけど・・・
咲子が帰国した1882年は「時代が大きく変わった」変革期でした。



とにかく、小学校から
大学まで、一気に整備します!
明治政府は、日本独自の学問など眼中にはなく、洋学を猛推進しました。
そして、洋学を学ぶ基礎力増強のため、「学校整備」を猛烈推進していました。



私塾の時代では
ないなら・・・



私塾のような
コンパクトな学校は作れないかな・・・



その発想は、
とても良いが・・・



学校を作る、のは
とても大変なことだ・・・



それは
そうよね・・・



アメリカには私立の学校が
たくさんあるけど・・・



お金を持っている人が
多額の資金を出して設立しているし・・・
米国に11年間もいて、日本語よりも英語の方が堪能になり、フランス語なども基本会話を習得した咲子。
咲子は、当時の日本人の誰よりも「米国という国家の本質」を知っていました。



うむ・・・
難しいだろうな・・・


米国の超名門校・ハーバード大学などは、ほとんどすべて私立大学です。
「国立中心」発想が根強い日本の学校制度


明治政府が帝国大学を設立して以来、「国立至上主義」がずっと続いている日本。
| 設置年 | 大学名 |
| 1877年 | 東京帝国大学 |
| 1897年 | 京都帝国大学 |
| 1907年 | 東北帝国大学 |
| 1911年 | 九州帝国大学 |
| 1918年 | 北海道帝国大学 |
| 1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) |
| 1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) |
| 1931年 | 大阪帝国大学 |
| 1939年 | 名古屋帝国大学 |
1877年に帝大(東京大学)設立後、20年後の1897年には京都帝国大学(京都大学)が設立。
京都帝国大学設立までは、帝大はただ一つでありました。
そして、京都帝国大学設立に合わせ、区別するために帝大から東京帝国大学に名称が変更となりました。
その後は、1907年に東北、1911年に九州、1918年に北海道とテンポ良く帝大整備を続けた大日本帝国。
最初の帝大設立から40年ほどで、日本全国に五帝大を整備しました。



次は、韓国に
帝大を作る!
そして、1910年に併合した韓国は、当時は日本領でした。
そして、韓国・京城において、1924年に京城帝国大学を設立しました。
ちょうど、大正から昭和になる2年前であり、「大正か昭和へ」の時代でした。
さらに、1928年には、日清戦争で清国から割譲を受けた台湾で、台北帝国大学を設立しました。
この頃の大日本帝国はメキメキ力を増強させ、海軍においては「世界三大海軍国」の一つとなった頃です。
・米国
・大英帝国
・大日本帝国
幕末から飛躍的に大強国となった大日本帝国:大躍進の原動力「学校設立」





我が国には一隻もない
黒船・・・



その黒船が
九隻もやってきた・・・
幕末の1853年に、米国からペリー提督率いる軍艦が乗り込んできて、驚愕した日本。
この頃の日本は、欧米と比較して「明らかに後進国」でした。
自前の軍艦はほとんど持っていなく、その技術も資源も不足していた日本。
そして、咲子と浩が話し合っていた1882年頃は、猛烈な勢いで「欧米から学ぶ」姿勢だった大日本帝国。


この後、1894年に日清戦争が勃発して、大日本帝国は大勝利しました。
陸海軍で大健闘した大日本帝国は、この戦争によって「世界の一流国の仲間入り」を果たしました。
ところが、日清戦争における海軍の主要軍艦は「全て外国製」でした。
つまり、昭和中期の大日本帝国は、まだまだ「自国で軍艦製造出来ない」状況だったのでした。



我が帝国で
軍艦を製造するのだ!
そして、日清戦争で得た賠償金を元手に、軍艦建造計画を推し進めました。
三国干渉に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



もっともっと
最新科学技術を学ぶものを・・・



優れた欧米の科学技術力を
吸収した人物が大勢欲しい・・・
そして、欧米学問強力推進のもと、自国で優れた人材を多数育てることに成功した明治政府。



欧米で学んだ人たちが、
帝大で教授となって、後進を育てるのだ!
欧米に留学して、欧米流の最新学問を身につけた人物たちが、多数帝大などで教えました。
その結果、みるみるうちに日本国内には、最新の科学技術を理解し、独自に発展させる人物が多数登場しました。
それらの人材たちが各方面で活躍して、飛躍的に「大日本帝国の科学技術力」を増強しました。


その後、大日本帝国は、自国で多数の軍艦を建造し続けました。


そして、空前絶後の世界最強戦艦であった戦艦大和、戦艦武蔵を建造した大日本帝国。


さらには、多数の空母と航空隊を備える、一時は「世界最強の航空艦隊」まで誕生させた大日本帝国。
当時は、米国や大英帝国よりも遥かに国力が劣った大日本帝国。
その内実は「無理の無理の上に、さらに無理を重ねた」結果でした。
ところが、この大日本帝国の「急激すぎる成長」は、世界の視点から見れば驚愕すべきことでした。



Japanの成長ぶりは
異常だ・・・



一体何をどうやったら、
こんなに急成長するのか・・・
この幕末から、第二次世界大戦の「異常な急成長」を実現した背景には、学校整備が極めて重要でした。
「戦争への道」に走ったことの是非は別として、明治政府の「学校整備」は巨大な成果を挙げました。
この「学校整備」の流れの真っ只中にいた咲子と浩。



私塾や学校は
ちょっと難しい・・・



そうね・・・
他のことを考えるわ・・・
「政府肝入りの学校整備の大潮流」の中、咲子は私塾や学校設立を断念しました。
次回は上記リンクです。



