前回は「「真珠の玉のような涙」流した大西瀧治郎〜説得断念した梅津と豊田・高松宮「海軍は陛下のご信用失っている」・皇族の叱責受けた統帥部〜」の話でした。
忘れられない「大西中将の手のぬくもり」:「終戦へ」米国宣伝ビラ

大西瀧治郎自分たちは、戦争に勝つために
今日まで真剣な努力を積み重ねてきたつもりだったが、



いま、この最後の段階にきて考えてみると、やはり、まだ、
真剣味が足りなかったような気がして深く反省している。



現在の真剣さをもってすれば、近い将来に局面を
好転させるような名案が浮かぶかもしれないと思っている。



なんとか、ここで戦争を継続するような、
良い考えはないものだろうか。



大西中将の流す涙は、ちょうど
真珠の玉のように思われた。
1945年8月14日、後世の視点で「玉音放送の前日」です。
この日の真夜中、大西軍令部次長は迫水書記官長に対して、こう訴えました。



航空機の生産能力がしだいに落ち、
性能も悪くなっていたので、



大西中将の主張する特攻作戦も
思うにまかせなくなっていた。



それだけに一億玉砕の覚悟で戦争を続け、
死中に活を求める決心でいたようである。



大西中将は、終戦直後、
割腹自決したが、



わたしは、あの時の彼の手の
ぬくもりを今も忘れない。



迫水書記官長
・・・・・



大西中将
・・・・・
おそらく、この時点で「このまま終戦ならば割腹自決」を心に決めていたに違いない大西瀧治郎。
「勝つため」或いは「国民(当時は臣民)を護るため」に存在していた、大日本帝国の軍人たち。
その軍人たちにとって、「敗北」は、



なんとかして、
米軍に痛撃を与え、勝つ・・・
どうしても、なんとしても、受け入れられないことでした。



八月十三日の午後になると、
同盟通信社や外務省から、いろいろな情報が舞い込んだ。



アメリカからの放送は、日本からのポツダム宣言受け入れの
回答が遅れていることを、しきりに責めているとのことである。



Japanからのポツダム宣言
受け入れの回答が遅い!
「降伏するしかないだろう」と考え、日本に比較的「大人しめ」の降伏条件=ポツダム宣言を突きつけた米国。
ところが、



なにをどうやったら、
こんなに回答が遅いのだ?
「迅速決定」の米国の立場から考えれば、「理解できないほど遅い」日本の回答でした。



飛来してくる米軍機からは、
さかんに宣伝ビラが撒かれる。



日本語で認めてある
そのビラには、



ポツダム宣言に対する日本政府の申し入れと
連合国側の回答が並べて載っており、



そのほかに次のような意味の文字が
記してあった。



日本国民は、軍人たちの抵抗を排除して
政府に協力し、



終戦になるよう努力する方が
将来のためになるだろう。
米国は、ある意味で「必死に日本の降伏」へ持って行こうと努力していました。
益々いきり立つ若手将校と不安な国民たち:「第三の原爆」の恐怖


当時、つい最近まで飛来してきた米軍機は「爆弾を撒く」存在でした。
ところが、この頃、米軍機が「撒いた」のは、爆弾ではなく、宣伝ビラでした。



これは、
何かしら・・・



終戦になるよう努力する方が
将来のためになるだろう。
ここで重要な点は、米国が日本国民に対して「終戦」と表現している点です。
どう考えても、米国から見れば、「敗戦」だった大日本帝国。
そこを「戦争に敗北=敗戦」ではなく、「戦争を終わらせる」という表現にした米国。



「敗戦」では、Japanの国民たちは
なかなか受け入れないだろうが・・・



「終戦」ならば、
Japanの国民たちは受け入れる可能性がある・・・
米国は、慎重に「日本の降伏」に向けて、緻密な戦略を練っていました。





このビラを拾った一般の
国民は、



何これ?
政府に協力して終戦?



勝つなら「協力」はないから、
負け、ということ?



なんで?
我が帝国は、勝っているんじゃないの?



これは、敵の謀略宣伝では
ないかしら・・・



敵の謀略宣伝ではないか、と疑いながらも、
日本の政府が何かをしつつあることを薄々感じ取っていた。



でも、これだけ爆撃されているから、
ひょっとしたら、そろそろ・・・



軍の連中は、
カンカンに怒っていた。



なんだっ!
このビラはっ!



若い将校を中心とする抗戦派は、
ますますいきり立っていた。
「既にいきり立っていた」抗戦派将校たちは、ますますいきり立つ状況となりました。



何が「終戦」なのだ!
我が帝国は、勝つのだ!



ひととき聞かれなかった
敵機来週の爆音がまた耳に伝わってきた。



日本の本土近くに敵の艦隊が
近づいているのか、



艦載機が飛んできて、各地で
機銃掃射を繰り返した。
「まだ戦争中」であったため、米軍機からは、ビラだけではなく弾丸も飛んできました。



第三の原子爆弾を東京へ落とすかもしれない
などという物騒な放送も流れ、



連合国軍は、新しい作戦行動に出るような
気配を示した。
ここで、迫水久常は、当時「第三の原爆投下の可能性」の噂をはっきりと記録に残しました。
「二度あることは三度ある」と言う通り、「第三の原爆の恐怖」が当時あったのは間違いないでしょう。



モタモタしていると、新たな
作戦行動に出るよ!
連合軍、というよりも米軍は、「遅すぎる」帝国政府の正式回答にいきり立っていたのでした。



ふざけるな!
我が皇軍は絶対に負けぬ!
国内では、陸軍将校たちがいきり立ち、



Japanよ、
早く降伏するんだ!
国外では、米軍がいきり立ち始める中、
もはや、大日本帝国政府は「いきり立つ人と組織」に囲まれる状況でした。
実は、当時の米国は、すでに「保有する原爆はゼロ」でした。




つまり、「大急ぎで製作した」原爆を、米国は「二発とも一気に投下した」のでした。
ところが、「米軍は、もう原爆は持っていない」事実は、米国政府の最高幹部数名のみが知る事実でした。





我がUS(米国)が持つ
原爆は二発ともJapanに投下した。
「京都への原爆投下」案を抹殺したヘンリー・スティムソン陸軍長官の話を、上記リンクでご紹介しています。
そのため、鈴木総理をはじめとする大日本帝国政府大幹部は、知らない事実でした。



政府がせっかく終戦の取りまとめを
行っているのだから、



これ以上、無用の被害を受けるのは、
なんとしても防がなければならない。



せっかく、ここまで
取りまとめたのだから・・・



なんとか、なんとか
終戦へ・・・
決まらない政府機構の中、なんとか「新たな大被害」を生まないよう、迫水たちは必死でした。
この時、1945年8月13日の午後。
玉音放送まで後二日を切る中、まだまだ「先行きは分からない」状況の大日本帝国でした。


