「討幕の密勅」出した「暴発公家」中山忠能〜「明治天皇の祖父」で復活・詔と勅の違い・詔よりも範囲が広い勅〜|討幕の密勅4・歴史の真実4

前回は「大政奉還翌日の長州藩への「討幕の密勅」〜徳川幕府消滅と討幕・大嫌いな西郷隆盛に軍隊指揮権与えた島津久光・尊皇の島津家〜」の話でした。

目次

詔と勅の違い:詔よりも範囲が広い勅

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薩摩藩に下された「討幕の密勅」(人物探訪日本の歴史 幕末の英傑 暁教育図書)
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長州藩に下された「討幕の密勅」(人物探訪日本の歴史 幕末の英傑 暁教育図書)

謎が深まる二枚の「討幕の密勅」の書状。

現代でも当時でも、「重大なこと」は「書面で交付する」ことになっています。

「密勅」というのは「秘」を指します。

天皇から出される指示には「詔」と「勅」があります。

「詔」と「勅」では、詔の方が上であり、詔は極めて重大な命令・指示の際に使われます。

「討幕の密勅」を出した人物は、後の明治天皇です。

1852年11月生まれの明治天皇・睦仁は、「討幕の密勅」が下された1867年10月は、現代の14歳でした。

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大日本帝国憲法(Wikipedia)
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大日本帝国憲法(Wikipedia)
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大日本帝国憲法(Wikipedia)

後に明治22年=1889年に交付された、明治天皇・睦仁による大日本帝国憲法の写真が上です。

この「詔(書)」は、天皇自らが署名し、多くの場合は正式な押印をします。

大日本帝国憲法に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

対して、「勅(書)」は、「詔(書)」よりも範囲が広いです。

「勅(書)」は、「天皇が伝えた言葉を摂政や関白が伝える」文書です。

天皇自らが伝える「詔」に対して、天皇を輔弼する最高位の人物が伝えるのが「勅」です。

「詔(書)」と「勅(書)」を合わせた「詔勅」もあり、詔勅は非常に限定された場合に使われます。

「討幕の密勅」出した「暴発公家」中山忠能

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正二位 中山忠能(Wikipedia)

それでは、「討幕の密勅」を「天皇の代理」で伝えた人物を見てみましょう。

ここでは三名の人物が記載されており、筆頭に「正二位 中山忠能」の名前が見えます。

中山忠能

この中山が
天皇に代わって申し伝える・・・

つまり、「正二位 中山忠能」が「天皇に代理で、天皇の言葉を伝えた」のが「討幕の密勅」です。

中学受験〜大学受験の歴史の学びにおいて、中山忠能という人物は登場しないと思われます。

ところが、この「幕末維新を変えた人物」の一人こそ、中山忠能でした。

中山忠能

この中山は、
かつて参議であったのだ!

かつて参議という重職にあった中山忠能は、朝廷で重きをなしており、

中山忠能

私はずっと長州を
支持してきたのだ!

幕末に、暴走を続けた長州を、朝廷内で支持し続けた勢力の一人でした。

挙げ句の果てに、朝廷の重要人物の一人でありながら息子の中山忠光が討幕を企み、挙兵しました。

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七卿落ち(Wikipedia)

三条実美ら七名の公家が京都を追放された「七卿落ち」に連座する形で、「差控」の処分を受けた忠能。

中山忠能

それでも私は
長州派です!

この頃、後に「正統派」となる長州藩は、何事においても「ちょっと行き過ぎ」が目立っていました。

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禁門の変(Wikipedia)

その長州藩は「暴発」を超えて、「大爆発」してしまい、禁門の変に至りました。

古来から、日本では時代の転換期において「京が戦場となる」自体は多数ありました。

禁門の変もまた、「京が戦場」の一例とも言えますが、「御所に攻め込む」のは前代未聞でした。

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孝明天皇(Wikipedia)
孝明天皇

長州藩が
我が御所に攻め込んだ、だと・・・

日本においては、古来から「御所」は「攻め込む対象」であってはならない場所でした。

「攻め込む対象」は、「揉めている同士」の城や陣営・屯所などの「軍同士の戦い」であるはずでした。

それにも関わらず、「天皇がいる御所」に攻め込んだ長州は、単なる「犯罪者・暴徒の集団」でした。

孝明天皇

長州は絶対に
許せん!

この「非常事態」を超えて「異常事態」に対して、時の孝明天皇はキレてしまいました。

「天皇がキレる」という事態もまた、日本の歴史において、極めて稀な事態でした。

これは、「キレた天皇」が尤もであり、「御所攻撃」は史上最悪の出来事でした。

孝明天皇

長州は
朝敵だ!

そして、長州藩が朝敵となるのもまた「当然のこと」でした。

禁門の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

「明治天皇の祖父」で復活

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左上から時計回りに久坂玄瑞、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作(国立国会図書館)

何事も、物事は「やりすぎ」は良くないです。

どう考えても「やりすぎた」長州藩。

そして、孝明天皇の「怒りの矛先」は長州以外に「長州の味方」にも及びました。

孝明天皇

いい加減
にせよ!

孝明天皇

中山忠能は
頭に乗りすぎだ!

孝明天皇

我が妻の父親と
言えども・・・

孝明天皇

私にも
限界がある!

実は、朝廷内の「暴発公家」の一人であった中山忠能は、孝明天皇の奥さんの父でした。

孝明天皇

中山は京都から
追放だ!

中山忠能

は、
ははぁ〜・・・

孝明天皇を怒らせてしまった中山忠能は、京から追放され、一時は一切の政治権力を失いました。

禁門の変の後2年半ほど後、1867年1月に孝明天皇は崩御しました。

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明治天皇(国立国会図書館)
明治天皇

中山忠能は
私の祖父なのだ!

明治天皇

中山忠能を
赦す!

そして、即位したのが「中山忠能の孫」であった明治天皇・睦仁でした。

中山忠能

やった!
復活したぞ!

明治天皇の「鶴の一声」で、一発で復活・復権に成功した中山忠能。

「討幕の密勅」を出した人物は、このような「少し曰く付きの人物」だったのでした。

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