前回は「島津家と毛利家を動かした「討幕の密勅」〜同日だった薩摩への「討幕の密勅」と大政奉還・家臣だった西郷と木戸・歴史が動く「その時」〜」の話でした。
大嫌いな西郷隆盛に軍隊指揮権与えた島津久光:尊皇の島津家


幕末、日々歴史が動いていた時期であった、1867年10月13日。
薩摩藩に、天皇から「討幕の密勅」が下賜されました。

西郷隆盛討幕の
密勅ごわすな!



これは、天子様(天皇)が
我が薩摩に命令しているのだ!



賊である徳川慶喜を
討て!、と!
この「討幕の密勅」という「天皇の秘密命令」こそが、「幕末の最大の鍵」となりました。
「討幕の密勅」さえあれば、「直接の軍隊指揮権を有する」島津久光から、西郷たちは「指揮権」を受け取れます。





西郷が有能であることは、
認める・・・



だが、私は、
西郷が大嫌いなのだ!
この頃、「薩摩藩の顔」であった西郷でしたが、大問題がありました。
それは、「薩摩藩の最高権力者」であった島津久光から「猛烈に嫌われていた」ことでした。
西郷隆盛と島津久光の二人は「終生すれ違い」の人生となりましたが、これは西郷に非がありました。
島津久光を激怒させて、二度目の島流しとなった西郷の話を、上記リンクでご紹介しています。



これ(密勅)さえあれば、
久光様は、討幕に動くだろう・・・



うむ・・・
久光様は尊皇の意識が強いからな・・・
そして、案の定、西郷と大久保から「討幕の密勅」を見せられた島津久光は、



分かった・・・
天子様の命令は、全てに優先する・・・



我が薩摩の兵の
指揮を西郷に任せる・・・
薩摩島津軍数千の軍隊指揮権を、西郷が受け取ることとなり、歴史が一気に展開しました。
大政奉還翌日の長州藩への「討幕の密勅」:徳川幕府消滅と討幕





この徳川慶喜、
政治の大権を朝廷にお返し致します!



徳川家は、
大政奉還します!
ところが、この「討幕の密勅」が薩摩藩に発行された同日である1867年10月13日は、幕府も動きました。
当時、対外的には「最高権力者」であり「大君」と呼ばれていた将軍・徳川慶喜。


この頃、諸外国は天皇のことは当然知っていましたが、



JapanにEmperor(天皇)が
いることは知っている・・・



だが、なんといっても、
Tokugawaが大統領のような存在だ・・・
「何事もTokugawa」であり、徳川家の支配体制は盤石でした。
この「討幕の密勅」と大政奉還が「同日」となったことは、偶然といえば偶然ですが、奇遇過ぎました。
詔す。
源慶喜、累世の威を籍り、闔族の強を恃み、妄に忠良を賊害し、数王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。
朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以てか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いむや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万已むべからざれば也。
汝、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊を山岳の安きに措くべし。此れ朕の願なれば、敢へて或ひ懈ること無かれ。
ここで、「討幕の密勅」の具体的な内容を見てみましょう。
難解な漢字が多く、古文なので分かりづらいですが、現代の日本人でも「大体は分かる」内容です。
詔を下す。
源(徳川)慶喜は、歴代長年幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。
私(明治天皇)は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。
お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
現代文が上記です。
特徴的なのは、「徳川慶喜」ではなく「源慶喜」と記載されていることです。
「征夷大将軍は源氏」という不文律が古来からあり、徳川家は源氏を名乗っていました。
「討幕の密勅」は、「賊臣=源慶喜を殺せ」と明記していますが、その前提は「幕府」の存在でした。



本日10 月13日をもって、
徳川幕府は消滅しました!



もはや、私は
征夷大将軍ではありません!



単なる徳川家のボス・
徳川慶喜です!
ところが、慶喜が大政奉還したために、「大前提である幕府」が消滅してしまいました。
そして、慶喜は「征夷大将軍ではなくなった」状況になりました。


それにも関わらず、突然「犯罪者扱い」された徳川慶喜。



私は悪いことは
何もしていない!
ここで、朝廷は「同日1867年10月13日の討幕の密勅」は無効とするしかない、立場でした。
「徳川幕府のボス+征夷大将軍」であった、「徳川(源)慶喜に対する指令」であった「討幕の密勅」。
ところが、翌日に同じ文章の「同日1867年10月14日の討幕の密勅」が長州藩に下賜されました。
これは、どう考えても「説明がつかないこと」でした。
どこから見ても、どう考えても「不自然でしかない」のが、「討幕の密勅」でした。


